死を待つ人

自分はやがて、死を待つ人になるのだと思う。

これは決して死にたいとかではなく、死が救済だなんて無神論者気取りのくせにヘンテコ宗教観丸出しの大学生みたいなチンケな思想に傾倒しているわけでもない。

ただ、生きたい理由は幾つもあるのに、生きなければならない理由が自分には「親より先に死ぬ親不孝をしないため」しかない。

それはつまり、守るべきものもなければ抱えているものもない。そんな独身で人に愛されることのない男性が誰しも訪れることになる墓場の境地。

重ねて言う。生きたい理由はある。

例えば起業して大きな会社を経営してみたい。有名人になってみたい。馬主になってダービーを勝ちたい。好きなコンテンツのライブに行きたい。中国に訪れたい場所が無数にある。食べたいものも沢山ある。日本がW杯優勝するところだって、見たい。

でもそれらは全て生きたい理由でしかなく、生きなければならない理由ではない。

親が死んだ先、私が死んで悲しむ人はいない。「あいつ死んだのか」そう思う人すらこの世に10人もいるかどうか。所詮、空気のような人間だと思う。人と話すし空間を共有して同じプロジェクトに携わっているのに、仲間だとは全く思えない。

学生の頃は部活動だけで20人はいようものだが、人生において深く関わる親友なんて5人も残らないものだ。実際私には、中学で1人、高校で1人、大学で1人ずつしか、大人になってから食事に行くような付き合いの人はいない。

たった3人。
小学校から10年以上あって、3人。
それも年に一度会うかどうか。つまり、3日。

「親友」が埋める自分の時間は、1年のうち3日だけ。

そこに大人になってから交流するようになった人が何人か。彼らの埋める時間が、何日か。それでも結局は20日もない。仕事が250日くらいあるとして、残り115日のせいぜい20日しか「友人」は埋めてくれない。

「友人」なんて、いつまで残る?
社会人になって10年もしないうちに3人になった集団が、この先いつまで3人でいてくれるのか。いま交流している人が5年後に何人残るのか。まだ誰も子供がいない。子供が産まれたら、今みたいには誘えない。誘われることもきっとない。じゃあ40歳になる頃には、何人だ? 何日埋めてくれるんだ。

親が死んだとき、私の何日が空白になるんだろう。私の空白は何日になるんだろう。その空白の住人こそが、死を待つ人に他ならない。

生きたい気持ちは、生きなければいけない理由がないまま生きる苦しみを、どこまで薄めてくれるのだろうか。

生きたいと思う心は、生きなければならない理由のない人間を、どれだけ正気に縛り付けてくれるのだろうか。

これまでの人生において、少なくとも私においては欲求よりも遥かに義務の方が重く、自由より制限の方が己を正しく導いてくれた。いま私が必死になって空白を埋めんと欲するままに作り出している「生きたい理由」は、その始点が欲求に置かれている以上はどこまで行っても自由でしかない。

人を繋ぎ止められるのは自分も含めた人しかいない。他の誰も頼れないのなら、過去の自分で常に現在の自分を繋ぎ止め続けるしかない。今の自分は常に未来の自分を繋ぎ止めなければいけない。その生き方を模索しても、今度は繋ぎ止めるための理由が必要になる。

簡潔に言えば、生きなければならない理由のない人間というのは、生きたい理由が途切れた瞬間に死を待つ人になってしまうのであり、いま作り出した生きたい理由を未来の自分にとっての死ぬべきでない理由へと接続し続ける生き方であり、つまるところ生きたいと願い続ける生き方なのである。

生きたいと願い続けなければ、生きることも叶わない人間。

こんな人生、どうにかできないものなのか。