インターネットにおける暴力性が話題になり始めて20年以上の月日が経った。
「最近の若者は表面上は穏やかでもネットでは攻撃的だ」と誰かが語れば、それに対して「インターネットによって表に出るようになっただけで昔から変わらない」と誰かが語る。
大いに納得だ。別にネットなどなくとも、みんな陰口が好きだ。誰かを冷笑し、嘲笑することが好きだ。私だってそこから外れない。
自分は何もしていないのに、よく知りもしない相手を嘲っているだけで自分の地位が相対的に上がっていく。これほど楽なことはない。特に何か動かずとも、共通の敵を作るだけで結束が固まる。それはもう集団に必要な仕方のない犠牲であるようにすら感じる。
インターネットにおいて毎日のように展開されている、様々な対立も同じことだろう。
男女問題など、その最たる例だ。
女性に見向きもされない男性が「女は男女平等と言いながらデートでは奢れと言う」と憤り、およそ若い身体でしか男を惹きつけられない女性が「だからお前らはモテないんだ」と返す。
自分が旦那の給料を稼ぐことなどできない女性が「夫が家事も子育ても手伝わない」と愚痴れば、旦那になどなれる見込みもない男性が「パートしかしてない奴が偉そうにするな」と返す。
デートで奢る男性は、デートで奢れとふんぞり返っている女性とはデートしないだろう。
夫のためにと料理や掃除に励む妻なら、夫も労って一緒になって子育てや家事に励むだろう。
すれ違っている言い争いは、空中戦の様相を呈している。どうしてこんな不毛な議論が年中止まらないのか。それは、人々が怒りたがっているからだろう。
つまりその内容などどうでもよく、何かに怒りたいのだろう。異性でも高齢者でも新人でも中国人でも白人でもなんでもよく、嘲りたいし怒りたいのだ。
素晴らしいインターネットの存在によって導火線が各地にちりばめられているなかで、種火を持って走っているランナーたち。ところかまわず火をつける姿は迷惑なことこの上ないが、今回はその話がしたいのではない。
そのような世情のなかで、架空の世界における美少女たちとのラブコメに「癒し」を求めるオタクたちによる、きわめて暴力的な感想、その被害について言及したい。
まずはじめに注意書きが必要になる。今から書く内容は、以下の作品のネタバレを含む。
・黒岩メダカに私の可愛いが通じない
ネタバレを回避したい人がブラウザバックをするために少し文量を稼ぐことにしよう。
読み進める人はどうぞ飛ばしてもらって構わない。
さてフリートークで何を書くかだが、さっきカップ焼きそばを食べた話でもしようか。
まずカップ麺というのは画期的な食品だが、しかし私は過去に一度としてその容器に記載されている指示通りの時間で食べたことがない。何らかのメーカーの基準により研究者や偉い人が何分後に開ければ想定している味に最も近づけられるかを考えた末に定められた時間なのだろうが、保存環境やお湯の温度という違いに比べれば指示通りの時間であるかどうかの影響は大きくないと見ている。
そしてこれはおそらく性格が出るところだが、私の感覚では「3分」と書かれていれば2分で完成しているし、2分で完成するのなら1分でフタを開けても食べているうちに残りの1分は経過する。であればフタを開けるのはお湯を入れてからお箸や飲み物を準備でき次第すぐで良いというのが私の持論だ。
しかしこの持論には大いに弱点があり、カップラーメンには通用してもカップ焼きそばには通用しない。なぜならカップラーメンと違ってカップ焼きそばはフタを開ける段階でお湯を捨てなければならないからだ。となればフタを開ける時間は麺が完成するタイミングでなければならない。
これは私のように時間は計らずにさっさと食べ始めてしまいたい、食品を前にして美味のために待機するような趣ある生き方をできない人間にとっては、きわめて難しいことだ。指定された時間だけ待つのは難しい。他の何かをすればオーバーしかねず、かといってすぐに開けると未完成。
これに対する私の解は、指定された時間で完結する何かをするということである。己の体内時計に頼るのではなく己の時間想定に頼るのだ。つまり感覚ではなく計算に頼るということ。感覚より計算の方が幾分か自らは信頼に足るととらえているがゆえの選択であった。
今回の私はこのようなプランを考えた。まずお手洗いに行き、終わったら手を洗ってついでに顔もすすぐ。そこから戻ってきて飲み物を用意し、お箸を用意し、座って目薬を差す。ここでもう一度立ってカップ焼きそばの前に立ち、カップ焼きそばをキッチンへと持ち運ぶ。この際に付属のソースとマヨネーズは別で持ち運べば1.5往復必要となる。それで時間通り、という読みだった。
結果、カップ焼きそばは少し硬かった。
意味もなく時間をつぶそうとして上手く完成もさせられないのなら大人しくスマホで時間を計ればいいのに。そのような意見は至極真っ当な指摘なのだが、この場合における重要なポイントは時間を計って待つのが苦手だということよりも、時間を計らないことそのものを料理の一部として楽しんでいるという点である。なぜなら時間を計りながら上記の動きをして最後にフタを開ける直前で時間を確認すれば、取り返しのつく答え合わせができるからだ、しかしそれはしない。
自炊においても、肉の温度など全く気にしない。なんとなく焼けているか焼けていないか、これは食に対して楽しみを見出す方法の一種だ。丹念に仕込んだり何時間も煮込んだりすることに楽しみを見出す人もいれば、私のように一口目のサプライズを楽しみにするのも楽しみ方の一つなのである。
……そろそろいいか。
近年のオタク向けラブコメは極めて少女漫画化が進んでいる。
これはもう圧倒的な時代の流れであり、従前のエンタメに対して女性の比率が飛躍的に上がっているのだろうから、当然さまざまなコンテンツにおいて女性化が進んでいくものだ。時代そのものが女性化しているというのは今更語ることではないだろう。
そのなかで「一本道ラブコメ」が完全に主流になっていることに対しての嘆きを当ブログでも少し前に投稿した。
ラブコメが主軸でない作品においては、ヒロインが1対1の対応であることは少年漫画においても珍しくはなかった。
悟空は別にブルマから性的な目で見られていないし、ワンピースでもここ一番でヒロインムーブをするのは決まってナミである。ナルトは少し特殊だが、コナンなんかは幼馴染のバーゲンセールである。
しかしラブコメにおいても主人公とヒロインが初めから固定されている。仮にヒロインが複数いて主人公に言い寄ってこようとも、誰とくっつくかを楽しむような作り方はされていない。こういう作品のことを私は「一本道ラブコメ」と呼んでいる。言葉のまま、ゲームにおける「オープンワールド」と「一本道」との比較から取ってきたものだ。
それら「一本道ラブコメ」ではオープンなラブがなく、クローズドなラブが展開される。主人公の男子は他ヒロインにときめくことはあっても、誰にしようか葛藤したりすることは稀で、基本的にはどう断るかを葛藤する。あるいは他ヒロインからのアプローチすべてが主人公によるメインヒロインへの恋心の自覚のトリガーとして活用され、作用する。
分かりやすい不良などの敵の存在もそうだが、これらは少女漫画的であると私は感じている。少女漫画にも複数の男から言い寄られて主人公が嬉しい悩みを抱える作品はあるのだが、やはり早い段階でメインとなる男性が決まっていくのが主流であるように思う。ましていわゆる「俺たたエンド」(決着をつけずにこれからも続いていくという終わり方)は少ないだろう。結ばれる二人が見たいという意見の方が多いはずだ。
このような流れのなかで、読者による感想を見ていると、恋する美少女を軸としたラブコメには「癒し」を求めている人が多いというのが分かる。ドキドキではなくキュンキュンを求めている。壁になりたいなどと書きこんでいる、主人公への感情移入ではなくその世界における不干渉の観測者になりたがるオタクがたくさんいる。
彼らはキュンキュンできているうちは「可愛すぎる」「生きがい」などとキラキラした感想を投げているが、しかしその一方で2人の恋路における干渉者に対しては邪魔者=敵であると見なして強烈な感想を投げ込みがちなのもまた状況として存在している。
私は、これは非常に危険であり、暴力的であり、尊大な攻撃だと感じる。
その代表として、申し訳ないが今回は「黒岩メダカに私の可愛いが通じない」という作品を挙げさせてもらう。
前提として私はこの作品をアニメから知ってハマり、原作最新まで購読している。毎週水曜に楽しく読んでいる。非常に作画も良く、女の子の可愛さに男の子の暖かさや不器用さが絡んだいい作品である。一番好きなのは湘南旭ちゃんだが、キャラはみんな魅力的だ。
しかし読んでいてほっこりする一方で、一本道でありながらヒロインが3人いることによる上述したような問題は如実に現れている。
メインヒロイン、すなわち主人公「メダカ」と結ばれるのがほぼ確実であろう同級生「モナ」に対して、負けヒロインとして後輩の「旭」とモナの幼馴染である同級生「朋」がいるのだが、この2人の負けヒロインの登場回となると感想には以下のような言葉が並ぶ。
「モナちゃん早く見せてほしい」「旭/朋は脈がないって早く気付いた方が本人のため」「メダカはやっぱりモナちゃんが好きなんだよね」「最近旭/朋ばっかじゃない?」
あまりにも、残酷な感想であると言わざるを得ない。これが真剣に恋をしている女子高生に対して投げかける言葉なのか。この作品を描いている作者や担当編集者に届けたい言葉なのか。私は全く理解ができないし納得もできない。
負けヒロインへの風当たりは、とにかく強い。一本道が主流になるにつれてますます勢いを増している。「いいからモナちゃん見せて」なんて粗暴な要求にも近い表現の感想すら読者同士でのいいねによって上位コメントに来てしまうという惨い現実がある。
ただでさえ勝ち目のない戦いを強いられているなかで、彼女たちが運命に抗おうとアプローチすることさえも彼ら一本道ラブコメの使者たるオタク達は認めないのだ。このさきの人生できっと糧にも思い出にもなるだろう初恋の失恋すら彼らからしてみれば邪魔で目障りなものなのだろう。
主人公には神の力によって全く通用せず、一緒にいて過ごしている間ですらメインヒロインのことを考えられてしまう。そんな負けヒロインに対してさっさと諦めてしまえとアプローチすら否定する。精一杯の足掻きすら封じられてしまう彼女たちに残された最後の手段は、短いページ数で起こせるような衝動的なアクションしかない。
【第199話 あの子と恋路】
これは衝撃的な回だった。この作品においてモナが恋を自覚した瞬間の次くらいにおそらく注目を集めて物語が進んだ回。何があったかというと、旭がいきなり主人公メダカにキスをした。しかも唇に。
これまでモナがキスしたことはあっても唇ではなかった。旭も朋も追いやられ、追い詰められ、その末に旭は自らの親友でもある恋愛アドバイザーの助言でメダカにキスするに至り、これまで以上にがつがつと攻めていく。
原作はまだ続いており旭のアプローチ中なのだが、これだけ攻めているということは、もう結論が下されるのは遠からずなのだろう。それを察しながらも、恒星が爆発するその最後の輝きを目に焼き付けるように私は読み進めている。
しかしこの旭の言動は、非難の嵐だ。
「正々堂々と勝負しているモナちゃんがかわいそう」「両想いを確認してからでないとキスなんてセクハラだ」「自分勝手で負けヒロインまっしぐら」「ファーストキスはモナちゃんが良かった」
あんまりだ。あんまりだとは思わないのか。
セクハラだとかメダカの気持ちを考えろというのは、百歩譲って分かる。例えば私がいきなり女子高生にキスをしたら警察に捕まるはず。性別が逆転していようと同じことだ。もっとも、モナも既にメダカの頬にキスをしているのだし旭は再三再四アプローチしてきているというのにラブコメ漫画で何を言っているのかと思わないでもないが。
しかし「負けヒロインムーブ」などと言われるのは旭にとってみれば心外以外の言葉は見つからないだろう。負けヒロインに追いやっているのは他でもない作者と読者だ。「正々堂々と」勝負しているモナに対して、正々堂々と勝負しようとしていた旭や朋に辛辣な言葉を書き込んでいたのは誰なのか。
自分たちで追いやっておいて、追い詰められたヒロインが最後の切り札として強行手段をとることに対して正論で殴り掛かるようなことは、私はいただき女子なんかと何も違わないように感じる。
生活保護のようなセーフティネットがあるのは、生活困窮者を追い込まないためでもある。もし異世界において職がなく困窮している貧民を指さして笑っている貴族がその場にあった包丁で刺されたとして、もちろんその暴力はよくないことだが、追い込んだのは誰なのかという話になるだろう。追い詰めてきた己の暴力性を顧みないで表面的な部分のみを取り上げるのは横暴だ。
そもそもモナとて初期のムーブは明らかにセクハラであり、彼らの発言はブーメランでしかないのだが、これまた理屈など後付けで感情が先行しているのだろう。とにかく、私からすれば「あんまりだ」という感想が毎週毎話に並んでいる。
私は何もハーレム作品しか認めないと言っているのではない。
確固たるメインヒロインがいる以上は読者もそのヒロインとの関係性を楽しみたいのは分かる。その気持ち自体は否定しない。
だがそれを書き込み、しかも多くの賛同を集めるのは、非常に問題だと感じる。きわめて暴力的であり、残酷だ。
負けヒロインも好きになれとは言わない。しかし精一杯の恋を邪魔扱いするのはどうなのかということを言いたい。そしてそれを口にするのは私は憚られるものだと思うのだが世間の人は思わないのだろうか。
ヒロインを追い詰め、彼女たちの抵抗を非難する。
それはたった数話のあいだサブヒロインによるアプローチが続くことすら許容できなくなってしまった、現代の弱きオタクどもによる罪過であると断じてこの記事を終える。
