ふと恋する惑星の話を

たまたまネットニュースで「9月に恋する惑星の再上映を行う」という記事を見た。

随分と昔の映画だろうに、強気なことだ。それだけ根強い人気があるということなら嬉しい。

【恋する惑星】というのは90年代の香港映画だ。

それなりに有名な作品ではあるはずだが、あくまでそれなりの話で、だからこの記事を読んでくれた人の中にも知らない人はいるのだろうと思う。例えば私は同年代で知っているという人を見た事がない。

じゃあ私はどこで見たのかというと実は覚えていないのだが、おそらく偶然BSで放送されているのを見たとかだろう。当時の私はきっと小学生。それも低学年か中学年だと思う。まだ女子ですら発育が始まっていないような、思春期に差し掛かる前の少年だった。

大人になってから、具体的には大学を中退することを親にも認めてもらって少しずつ前を向き始めたころに、もう一度見返した。物語の記憶は大半がそこで思い出したものに依っている。

恋する惑星は2部構成。
ショートストーリーが2つあり、おそらくレッドクリフ(赤壁)の映画で知られているだろう男優2人(レッドクリフでは諸葛亮役と周瑜役)が失恋をしている状態から女性との出会いを経て……という話。男性メインというよりは男女2人ずつだ。

時代を感じさせる感じの映像、風景。全く記憶にないはずの香港の街並みなのに、どこか懐かしさがある。そう思わせる温度感の世界で、男と女が巡り合う。

ポエムが挟まりながらドラマは進行していく。後半のストーリーは強烈で、初見でもまず展開に衝撃を受ける。女性役を演じているフェイ・ウォンは歌手なので本人の歌っている挿入歌が流れる(これは北欧だかのバンドのカバーソング)のだが、これがまた名曲だ。そして最後のシーンは、映像だからこそ表現できる世界、時間を与えてくれる。

これが恋なのだと、衝撃を受けたことを覚えている。

私にとって、今でも大人の恋愛といえば恋する惑星だ。

当時の私は幼かった。ホテルで行われる営みについて深い理解はなかった。女性の抱き方も知らない年齢だった。不思議なことに25歳の今でも知らないのだが……。

抱き方だけでない、後半のストーリーなんかは登場人物の心情がわからなかった。正直今でもライドしきれてはいない。でもそういう形があるという認識が私の中での恋という存在への解釈の根底にありつづけている。

私が失恋を好きなことも、この映画の影響があるのかもしれない。

私はいつも「失恋は悲恋とは違う、幸せなことだ」と思っている。失恋は人生において過程でしかなく、最終的には幸せになるハッピーエンドが約束されている。そうであってほしい。

恋によって生まれた穴は恋でしか塞げないものだと思う。失恋した先にある、単なるボーイミーツガールとは異なる男女の関係によって心の向きが変わる。そういう恋の在り方が私の中では今も大きい。

この映画を劇場で観た事がない。

もし再上映されるなら、正直観たい。

でも同時に、観たくない気持ちもある。

最近の私は映画の構図だとかについて勉強している。だからきっと、いま恋する惑星を見たら理解してしまう。理解できるかは別として、理解しようとしてしまう。

だが本音では理解したくないのだ。この映画が鮮烈なインパクトを私に与えたのは、少なからず理解できなかったからだろうと思う。理解した瞬間に、これまで観てきた沢山の「良い映画」の1つになってしまいかねない。それは嬉しくない。

好きだからこそ、遠ざけたい。

どうも私というのは大学を不登校になってから、そんなことばかり考えているらしい。ただ逃げているだけなのは自分でも分かっているが、未来に絶望するあまり思い出だけでも守ろうとして過去に触れることを怯える癖がついてしまったのだろうか。

もう一度恋をすれば、私もまた進めるのだろうか。

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