やめよう!「推し活」!

「推し活」なんて言葉、いったい誰が言い始めたのか。

本当にやめましょう。最悪の言葉です。

広告代理店だとか人文系の学者だとか政治家というのは、ふんわりとして冗長性のあった柔軟な概念に対してこういった定義も曖昧な言葉を新たに生み出しては、それをキャッチコピーとして振り回して無理やり広めることで既存の概念を包み込んで、やがて自分たちにとって都合の良い方向にもっていこうとするわけです。

つまり、悪質な誘導なんですよ。端的に言ってしまうと。

似たようなものだと「経済安全保障」とかね。自分の好きなように世の中を動かしたいから言葉を作るんです。自分で作った言葉なら定義も自分の思うまま。小説や脚本でもこういうのはよくあります。

話を戻して「推し活」ですが。

なぜこの言葉が気に入らないのか。なぜ推し活はやめようと思うのか。個人的な意見を書いていこうと思います。

まず「推し」ってなに?

「推し」という言葉は元々は地下ドルの文化だと言われていて、それがネットで使われ一般的にはAKB48の台頭と共に広まったものだと思います。

当初はオタクが使う言葉という認識のされ方だったものの、鬼滅を代表にアニメ文化が受け入れられていくに従って一般化してきて、ついにはメディアや売る側も堂々と一般人向けに使うようになったというのが流れです。

こうした地下ドルをはじめとしたアンダーグラウンドな文化から発祥したものが形成され毒抜きされた形で(つまりローカライズされて)地上に広められるというのはよくあることで、例えば神対応とか塩対応といった言葉もそうですし、最近では聖地巡礼なんかも近いです。

まぁ文化は往々にしてやや世間から隔絶された環境で生まれて熟成されたものが最適化されて一般化してきたのが古今東西の歴史で、それが貴族だったり差別されていた黒人たちだったり秋葉原のオタクたちやネットだったりするだけ。

だからまぁ、「推し」という言葉そのものが大衆化したこと自体には抵抗はないんですよ。

ただ危険視しているのは、その「推し」という言葉に作為的に付与されている神聖視すべきという意識なんですよね。

アイドルの恋愛は許されるのか

よく話題になりますよね。
アイドルの恋愛は良いのか、悪いのか。

賛否は結構分かれていて、大体アイドル文化とかに足を踏み入れている人は悪いと言って、動画で見て可愛いなと思う程度の人は別に良いだろってスタンスな気がします。

私は、もちろん許されないと思います。

許されないって書くと語弊があるというか、最終的には個人の自由なので無理やり縛り付けるとか絶望してアンチになるとかはないですけど、ただ不誠実ではあると思うんですよ。

ファンは確かに「推し」になることを誰かに求められたわけではないし、嫌ならやめればいいだけです。だから「推し」がどこへ行こうが恋をしようがファンにそれを制限する権利なんてない。

でもアイドルという文化は、開きもしないCDを特典目当てに何枚もファンに買わせて、電子版一つあれば事足りる写真集を何冊も買わせて、そうやって成り立っているビジネスなんですよ。

たった数時間、数分のために数万円の交通費かけて移動するファンのおかげで成り立っているビジネスなんですよ。それは確かな現実なんです。

そういう一般的な価値観からすれば異常に思えるような形でのビジネスを成り立たせているのは、熱狂的な推しへの想いがゆえです。ファンの推しへの熱がお金になっているんです。

つまり「推し」という言葉が指す概念は、本来そういった異常性を含んだものなんですよ。

崇拝は強いるものではない

前項でファンから「推し」への異常さを含んだ熱がビジネスを成立させていると書きました。

その異常さは、しばしば最初に書いた神聖視に近づいていきます。つまり「推し」が鹿を馬と言えば馬と返すべきだいう風潮が生まれて、それに反発するのは「推し」ていることにはならないとまで言われるようになります。

前述したアイドルの恋愛なんかも同じで、「推し」の幸せを願うのがファンとしてのあるべき姿であるという崇拝に端を発した思想が専横し、わずか1時間の楽しみのためにファンが千里を移動している間に「推し」が恋人とディズニーランドに行っていようが、それを祝福しないとファン失格の烙印が押されるようになるわけです。

でもそれは元々は推している側であるファンが自分たちの暴動の自制のため、自治のために涙を我慢してそうしていたことです。自分たちの熱の異常性を理解しているファンによって、「推し」の神聖視は対抗装置として機能してきた概念だったんです。

もちろん現実逃避などの他の方向性から崇拝に至る人もいますが、しかし確かに「推し」という言葉を用いることで「恋愛対象」などとは異なる存在として扱い、それによる自治が生まれていました。

だから推される側や「推し」をビジネスにしている側の人間が「推し活」なる言葉を喧伝して都合よく美化しようとしているのは、違うだろうと思うわけです。

例えばアイドルなら、疑似恋愛を提供することがビジネスの歯車の一部を担っている以上はその恋愛を偽物にするべきではないでしょう。

もし疑似恋愛が偽物とされたとして、それに対して話が違うじゃないかと憤ることの一体何がおかしいのでしょうか。おかしいなんて言うなら「推し」に対する崇拝や信仰や神聖視の方がよっぽど歪だと思うんですよ。

「推し活」というあまりにも邪悪な言葉は、そうした怒りを真っ向から否定しようとしているんですよね。その神聖視を常態化させようとしている。

それって順序が逆で、異常なまでに好きだから「推し」を神聖視するのに、「推し」への崇拝を強いることで異常性にベールをかけようとしているなんて逆立ちもいいとこです。ファンが自ずから神聖視することによる自制には期待できても、対象から強いられた神聖視は何の抑止力も持ちませんよ。

強引な美化はやめるべき

「推し活」なんて言葉で無理やりオタク向けのビジネスを美化しようとしても、根本のビジネスは変わっていないので必ずギャップが生まれます

たとえばCDを何枚も買わせるビジネススタイルはそのままに、何枚購入したかを信仰心の指標としながらも、その積み上げられたCDが無価値なゴミとして処分されることは咎められるようになっています。

明らかに他の料理より量も少なく食材も豪華でないものをコラボグッズとして他の料理の3倍の値段で販売していることも、どう考えたって美化するのは無茶です。ファンはコンテンツのために自分を納得させてお金を出していますが、そんな愛情を質にとって売りつけるようなビジネスが美しいわけがない。

私は高卒で頭も良くないですし商品開発の経験もないし営業やPの話を聞いたこともないので、無責任にぼったくりだと言っているんじゃないですよ。売る側からしたら採算のためにギリギリなのかもしれないとか好意的にも考えます。

でも買う側からすれば売る側の事情は売る側の事情でしかありません。必ずしも値段に見合っていると思っているわけではない人がいるのは確かです。他ならぬ私もそうです。

そこに対して簡単に「嫌ならやめればいい」なんて言うべきじゃないです。やめられないんですよ。「推し」が好きだから、最初からやめる選択肢はないんです。罠だと分かってても進むしかないんです。

それが本当の「推し活」なんですよ。

そういう狂気満ちた一方的なものが「推し活」なんですよ。

「推し活しよう」なんて推奨しておいて、本来抱えている異常性が顕在化した途端に切り捨てようとするのは極めて不健全だと思います。

「推してくれ」と言うのなら、最後まで推させるのが責任でしょう。推させる以上は、それ相応の責任を覚悟するべきでしょう。それが創作物なら完結させるべきだしアイドルなら卒業するまでアイドルに専念するのが筋です。

さいごに

「推し」という言葉は、恋愛対象だけを指すものではないです。既婚者を「推し」ている人もいます。私だって三森すずこさんとか好きです。今後、大西亜玖璃さんが結婚しても応援していくと思います。好きなので。

でも現実として、結婚すると大なり小なり(お金を落とすアクティブな)ファンは減ります。

既婚者であろうと応援するよという人は、ある意味では異常ですが、健全なファンだと思います。健全なファンに異常な熱を期待することが難しいのは仕方がないでしょう。異常な熱を持っていないから健全なファンでいられているという因果関係もあるわけですし。

悪いのは言葉ではなく用いる人間の意思です。

「推し活」という言葉が広まってしまった以上、言葉を廃れさせれば良いというものではありません。言葉は認識を共有するためのデバイスでしかないためです。

「推し活」の強引な美化をやめ、ビジネスの健全化を模索していくことで、この文化に関わる全ての人にwin-winな未来が待っていることを願います。

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