結局、中国は何千年の歴史なのか

このブログを執筆している管理人さふぁいあは1998年生まれなのですが、私は子供のころから「中国四千年の歴史」として教わってきました。

ただ昔は「中国三千年の歴史」って言われてたらしいんですよ。そして最近では「中国五千年の歴史」と書かれてることもあるんですよね。本場の中国では五千年が主流です。

当然、この疑問が浮かんでくると思います。

「中国の歴史って、結局のところ何千年やねん」


ざっくり中国史のおさらい

まずはざっくりと、現代から中国史を遡ってみましょう。
(ここにおいて”中国”の定義は厳密に考えないことにします)

2026年現在、中国の政体は「中華人民共和国」です。建国者(事実上)は毛沢東ですね。この中華人民共和国の建国は1949年。したがって現行の中華人民共和国としての歴史は80年弱というところです。

そのまえは国民党政権ですが、これは「中華民国」です。辛亥革命で孫文らが作りました。この辛亥革命が1911年。100年とちょっと前になります。

長いのでダイジェストでいきましょう。

中国の時代その頃の日本、繋がり
★満州系征服王朝「清」(1644~1911)江戸~明治。日清戦争。
★朱元璋の「明」(1368~1644)室町~江戸初期。勘合貿易、朝鮮出兵、倭寇。
★モンゴル系征服王朝「元」(1271~1368)鎌倉時代。元寇。
征服した「金」・亡命した「南宋」の時代平安~鎌倉。日宋貿易。
★趙匡胤の「北宋」(960~1127)平安。
五代十国時代(907~960)平安。
★李淵の「唐」(618~907)飛鳥~平安。白村江の戦い、遣唐使。
★楊堅の「隋」(581~618)???~飛鳥。遣隋使。
五胡十六国・南北朝時代???。倭の五王の朝貢。
★司馬炎の「西晋」(265~316)???。
三国志で有名な三国時代???。卑弥呼。魏志倭人伝の魏は三国の魏。
★劉邦、劉秀の「漢」(前206~220)これ以前は関わりなし。
★始皇帝の「秦」(前221~前207)
キングダムでも有名な春秋・戦国時代
※1、★は一般に統一王朝とされるものです。
※2、日本史の飛鳥時代以前は諸説あるので「???」としています。
※3、漢は一度滅ぼされていますが、すぐ再興してるので1つにしました。
※4、具体的な年はwiki「中国の歴史」準拠です。

春秋・戦国時代のうち前半期にあたる春秋時代というのは王朝「周」の遷都から始まるのですが、その春秋時代の始まりが紀元前770年です。

したがって、ざっくり2800年前くらいまで遡りました。

ここまでは世界史の授業とかでもやるかなと思います。

「周」王朝から考えると三千年

さて王朝「周」ですが、これの実在は確定とされています。ただ、その始まりに関してはハッキリとしたことが分かっていません。wikiでは紀元前1046年となっています(このことは後述します)。

全部で12代の王がいて、彼らの時代+王不在の期間が合計して270年くらい。余談ですが、この王が不在の期間に”共”という国の”伯”という位の”和”という名前の人物(通称:共伯和)が諸侯の合議制をもとに政治していたというのが「共和」という言葉の由来になっています。共和制とか共和国とかの共和です。

この周王朝、先行する王朝「殷(商)」を打ち破って建国したようですが、伝わっているような暴虐な王を征伐したというよりは勝てそうな隙を狙って征服したというのが実態とされています。当然諸説ありますけど、ちょっと夢がないです(笑)。

春秋戦国時代とかは竹簡に書かれた文字などを読み解いていくことになりますが、この時代は金文といって青銅器に彫られている文字から読み解いていくことになるんですよね。祭祀の記録とか、出来事の記述とか。それを後世に記された歴史書と照らし合わせていきます。

それで歴代の王の名前とかで一致を確認して、確定とされているわけですね。

紀元前11世紀よりは前なのが分かっているので、この周王朝の始まりが3000年以上前ということから中国三千年の歴史という話になっていたのかなと。

伝説の王朝「殷」の考古学的発見

20世紀の前半、日本が暴れていた時代に中国は河南省で始まった発掘調査で見つかったのが「殷墟」です。史記などの史書には記されていたものの半ば伝説と思われていた王朝「殷(商)」の実在を確定させる大発見でした。

発掘された甲骨に当時行われていた祭祀について書かれていて、ここで先代の王の名前が登場しています。これが歴史書の記述とかなり合致していたため確定とされました(勿論それだけではないですが)。

周王朝は12代の王がいたと書きましたが、こちらには20人以上の王がいたと史書に記されています。ただ考古学的な観点(発掘されたものを軸に考える)からいくと、これらのうち何人かは実在したのか分からないということになります。完全一致ではなかったことに注意してください。

さらに、この殷王朝は450年くらいあったとされるんですが、漢や唐のように途中で一度大崩れしているらしいんですよね。発掘された都市「殷墟」は途中の王が遷都して殷王朝を立て直した後期の都のようで、甲骨文もここの時代から始まっている模様ですが、それまでの王朝中期には何度も遷都してたりして他の勢力に押されていたっぽいのが分かっています。

このように殷王朝には謎も多く、たとえば周王朝が後の中国王朝らしい性格を多く持っていたのに対して、殷王朝ではどうやら親子間での世襲制でもなかったみたいなんです。いくつかの部族による合議制というか持ち回りで王をやっていたみたいで、この辺りは古代っぽさを感じて私は好きですね。

もっとも、殷王朝はかなり占いというかシャーマン的な感じでの恐怖政治だったようで、大量に生贄らしきものが発掘されていたりするから詳しく知ると嫌になってしまいそうですが……。

なんにせよ、まだちゃんと文字もできていなかった頃の殷王朝初期の王の名前が殷王朝後期の甲骨文で確認できたこと(体系的でない文字や口伝?)、その考古学的発見が殷王朝滅亡から1000年近く後の歴史書である史記の記述と一致したことは、中国における歴史を重んじる気風が如実に感じられ、解き明かされた伝説が歴史に変わるロマンを象徴していると言えます。

殷王朝の始まりは16世紀半ばとされています。したがって殷王朝から中国史が始まったと考える場合には、中国3500年の歴史ということになりますね。

「夏」は歴史か伝説か

中国の歴史書では殷王朝の前に「夏」という王朝があったとされています。しかし結論から述べると、この夏王朝に関しては実在が確定していません。

ただ、夏王朝があったとされる時代に、夏王朝があったとされる地域にあった遺跡は発見されています。それが「二里頭遺跡」です。

殷王朝の実在を決定的なものにした殷墟に対して、殷王朝前期の都市とされているのが「二里岡遺跡」です。この文化を二里岡文化と呼んだりします。そしてこの殷王朝前期のものとされる二里岡文化よりも二里頭遺跡は前の時代のものであるのが考古学的に判明しているのです。

この二里頭遺跡においては、宮殿のようなものの跡も見つかっているほか、城壁もあり、それなりの広場もあったりと、祭祀を中心に政治を行っていたと思われます。

そのあとの殷王朝でいきなり王朝が始まったとも考え難いですし、実際に二里頭遺跡と殷王朝とは物理的に距離が近いこともあり、現実的には二里頭文化を発展させた延長線上に殷王朝が始まったとするのが自然でしょう。

夏王朝があったと語る人も、王朝と呼べるかは疑わしいという人もいますが、世界的には「まだ王朝と呼ぶには発見が足りていない」とされることが多いです。しかし「王朝に近い何か」があったのはほぼ確実ですし、ここは解釈次第、今後の発見次第と言えるでしょう。

さてこの夏王朝は400年くらい続いたとされています。

歴史書によれば、その創業者は「禹」。治水に失敗して死んだ父に代わって治水担当となり、成功して名声を上げ、後に当時の帝から譲位されたという経緯です。17代目にテンプレ暴君「桀」が登場して倒されて滅んだという流れ。まぁ実際はただ弱ったところを殷に攻められたのでしょう。

伝統的に夏、殷、周を合わせて先秦三代と呼んだりします。秦王朝以前の3つの王朝としてまとめて呼ばれているわけです。これだけなじみ深く、それっぽい遺跡も見つかっているので、夏王朝(ないし夏文化)から中国史が始まったと考えると中国の歴史は4000年となるわけです。

日本で「中国四千年の歴史」というのは一般にこのためでしょうね。3600年だとキャッチコピーとして中途半端にも思えるからかもしれませんが(笑)。

幕間:夏王朝成立までの伝説を紹介

ここまで遡ってきましたが、ここからは解釈次第になります。

考古学的発見もあるのですが、まずは歴史書に基づいて中国の新石器時代から夏王朝までの流れを先に紹介しておきましょう。

一般には中国最古の王朝と言えば夏か殷ですが、歴史書においては夏王朝の前にも王朝があったという記述があります。それが「虞」や「唐」です。しかしこちらの表記の方が知られているでしょう。「三皇五帝」です。

実は春秋五覇とかと同じで、この三皇五帝(3人の皇と5人の帝)というのもハッキリと定まっていません。おそらく陰陽五行に合わせて数字が先行しています。雲台二十八将みたいなね。

ここでは次のようにして紹介したいと思います。私の好みです。

三皇→伏羲・神農・黄帝
五帝→少昊・顓頊・嚳・堯・舜

読めません。私も初見の時はもちろん読めませんでした。ルビを毎回振るのが面倒なのとここでしか見かけない漢字なので読みたい人は読み方をググってください。wikiあるので。wikiには三皇五帝の候補案もいろいろ紹介されていました。

歴史書ですら彼らの統治は半ば伝説の扱いです。大洪水がうんたらとか徳がうんたらとか。夏王朝も殷王朝も最後は暴君が現れて徳を失ったから天に代わっておしおきされたという流れになっていますが、この上古の帝たちは禅譲しているんですよね。自分から譲っている。信じがたい。

繋がりとしては親子関係があったと書かれていたりもしますが、別の一族だったと見なすものもあります。あやふやです。おそらくは多くの地域の神話を混ぜているからこういうことになるのであって、中国に限らず神話から歴史に至る流れというのはそんなものですね。

ちなみに紹介すると、三皇は「天皇・地皇・人皇」という説もあって、これは史記でそう書いているから有名ですね。天地人は易経とかから記載されている中国では昔からお馴染みの概念で、それにバケモノみたいな姿の神様を当てはめています。なお人皇というのも人には全然似てません。なんなら一番人間から遠いです。

明らかに神話な「三皇」

1人目、伏羲。先にいた燧人氏というのに代わって皇になったということになっています。妹の女媧とともに大洪水を生き延びたというノアみたいな話もあります。この兄妹で洪水を生き延びて夫婦になって人間を生んだみたいな神話は東洋でもいろんなところにあって、どっかの神話が組み込まれていることも推察できます。

面白い話として、実際に大昔に洪水があったみたいなんですよね。いやきっと人も亡くなっているから面白いと言ったらいけませんが、元となるエピソードはあったのかもしれません。

2人目、神農。伏羲と女媧の後に皇となりました。人々のために草の毒見をめちゃくちゃしていたら毒で死んでしまったという、聖人なようで何してんねん的にも思えるエピソードもある人物です。

神話の神々には家の建て方を教えたとか魚の取り方を教えたといった社会を形成するための役割がそれぞれにあてはめられていて、文明化の経緯を表現しているという見方もできます。それでいうと神農は農業と医学であり、定住して農耕を始めるにあたって食べられるか食べられないかは死活問題であったでしょうから、実際に毒見を買って出ていた体の強い人(または勇敢な人)がいたのかもしれませんね。

3人目、黄帝。道教において最高神とされる人物で、中国神話においては実質的に最初の帝であり、各地で信仰されています。存在感で言えば三皇ではダントツです。

上述した神農に始まる炎帝神農氏という500年くらい納めていた部族に従っていた黄帝は公孫氏の人物で、神農氏の治世が乱れたときに戦争して激戦の末に勝利した「阪泉の戦い」、反乱を起こした神農氏側の蚩尤と激戦を繰り広げて勝利した「涿鹿の戦い」が有名です。

急に血生臭いあたりは三皇らしくないですし、五帝に分類されるのも分かります。それに阪泉の戦いでは猛獣を従えて指揮したとか、涿鹿の戦いでは敵味方ともに神様や巨人や竜が参加する神話上の大決戦があったとされていて、中国神話には珍しくファンタジー向きです。

なお公孫氏は北方の遼河文明だとか、蚩尤はこの頃に滅んだとされる良渚文化だとかという風に考古学的な発見に伝説を当てはめる考えもありますが、当然ながらロマンでしかありません。

記述の少ない3人

五帝の1人目、少昊。黄帝の子です。蚩尤を捕まえて切り殺したのは彼だとも言われています。

五帝の2人目、顓頊。黄帝の孫とされますが、少昊の息子ではなく甥です。

五帝の3人目、。少昊の孫にして黄帝のひ孫とされます。生まれてすぐに自分の名前を言ったらしいです。そんな赤ちゃん怖いって。まるで釈迦ですね。

この3人は正直言って地味です。徳が高かったらしいです。

実在したかもしれないし、してないかもしれない。普通に人徳のある為政者くらい普通にいそうなんでね。いや嚳のエピソードは無いでしょうけど。

儒教の聖人「堯」

五帝の4人目、。儒教における最大の聖人です。嚳の次男だったとされます。長男は徳が低かったのですぐ死んでしまったそうです。本当なのかな。

黄帝以来に征服した話が伝わっていて、陶や唐を滅ぼしたとされています。ちなみに夏の建国者である禹の親は陶にいたそうです。神話なのに急に実際にありそうな話がでてきますよね。治水担当って政治の一大プロジェクトであると同時に危険な役回りですし。

堯の有名な話として「鼓腹撃壌」を紹介しておきましょう。

堯が自分の政治が上手くいってるかを調査するために民衆のフリをして歩いていると、民たちがどんちゃん騒ぎをして「俺たちは普通に生活するだけだ、帝なんか関係ねぇ」みたいなことを歌っていました。それを聞いて堯は「政治の影響を感じないということは政治が上手くいってるんだな」と言いました。

親なんか要らないと思えるのは親のおかげで普通に生活できているからとか、政治に興味がないのは日常生活で政治に不満を持つようなことがないからとか、まぁそういう感じのエピソードです。ちなみに初出が堯の時代より3000年後くらいなのでほぼ確実に創作です。

さて堯がなぜ儒教でトップクラスに聖人とされているかというと、もちろん堯の政治が良かったからなのですが、それ以上に世襲ではなく血のつながっていない舜へと禅譲したからです。

堯が何度も舜を試すようなことをしたうえで舜に帝の座を譲りますが、舜は複数回断ります。堯が死んだ後に舜は堯の子にやらせようとするものの、結局多くの人に望まれる形で舜が帝になったという経緯です。

頼まれて複数回断るのは儒教テンプレです。日本にもその影響は大きいですよね。奢るよと言われても何回か財布出して払うフリをしたり、プレゼントに対して「そんなの(用意しなくて)良いのに~」とプレゼントを要らない旨を伝えたり。

私も中国の禅譲に倣って、2回までは断って3回目に感謝するようにしています。たまに相手に2回目くらいで引き下がられます。

儒教の聖人2「舜」

五帝の5人目、。上述のように堯の一族ではなく、顓頊の子孫ということになっています。ややこしいですが黄帝から始まって少昊→嚳→堯の父系があり、対して黄帝からの別の父系として顓頊→舜のラインがあるわけです。

黄帝、堯、舜の3人はエピソードが多くて人気もあるのに対して、少昊、顓頊、嚳の3人は地味であり、3人の帝を聖人として繋げるために都合よく持ち出されていると考える人もいます。黄帝が道教の最高神であり堯舜は儒教の聖人なあたり、司馬遷がバランスを取ったとか少昊・顓頊・嚳の3人も元は何かしら信仰を集めていたとか、説はいろいろです。

司馬遷自身も「昔すぎてよく分からんし、地域でエピソードも違って神話くさいから史記に載せるか悩むけど、だいたい似通ってるエピソードは実際何かしらあったっぽいから厳選して紹介するわ」的なコメントを残しているので、数千年間にわたって人々はそれぞれの解釈で理解してきたわけですね。

話を戻して舜ですが、彼は儒教の聖人らしく親孝行で知られた人物です。父親がどうしようもないクズだったそうですが、彼は孝行息子として有名で、父親に何回も殺されそうになるのに生き延びて何もなかったかのように父親に尽くしたんだとか。

堯は舜に娘を2人嫁がせていて、娘の話も聞いて舜を取り立てます。舜は見事に仕事をしていたので徳があるとして後継者として指名したという流れです。なお舜は堯に反乱を起こして幽閉したとか、堯の息子を傀儡の帝として立ててから自分が帝についたとか、中国らしい説も残っています。

帝になった舜は優秀な人間を採用して政治を行ったとされ、治水で功績を積んだ夏王朝建国者の禹もこの中の1人として登場します。またこの中の1人である裁判官・皋陶も中国では司法の神として有名です。公平正大だったそうです。

舜は悪い奴らをやっつけたという話で知られます。古代中国における妖怪たち(四罪・四凶)を倒したそうです。実際には堯と同じように他の地域に攻め込んでいたのかもしれませんね。

そしてこの舜が禅譲したのが禹です。禹は自分も禅譲しようとしたそうですが、彼の息子の方が禅譲相手よりも徳があったために夏王朝は世襲王朝となったようです。都合が良いように思えます。

余談:堯舜は本当に聖人なのか?

儒教において最高級の聖人とされ、古の模範として何度も名前が挙げられる堯舜ですが、彼らは本当に聖人だったのでしょうか。

堯も舜も敵を倒したエピソードがありますが、それはつまり彼らの時代には敵がいたわけで、本当に徳で満ち溢れていて人々が幸せなら敵はいなかったのではとも思ってしまいます(少なくとも舜の時代に裁判で悪事を裁く必要はないはず)。

これを唱えたのが韓非子で、有名な「矛盾」の話は実はこれを言うための例え話なんですよね。

絶対に貫く矛と絶対に貫かれない盾があるのは成立しない。どちらかが偽である。同じように、堯の政治が完璧だったのなら舜は悪い奴をこらしめる必要がないのだから、堯舜のどちらかについては語られている内容が偽である。という主張でした。

上述したように堯は舜によって幽閉されたなんて書いてあるものもありますし、本当に禅譲されたのかも怪しい。まぁ実在したかも定かではない人たちのエピソードで真偽を語ることがもう聖書の解読みたいな話ではあるんですけどね。

考古学的発見からの考察

中国全体における考古学的な話をすると猿人や原人まで遡れてしまうので、ここでは上に書いたような歴史書について考古学的発見でどこまで考えられるかを紹介します。

まずは大前提として、中国の文明においては中原を中心とした黄河流域だけで始まったものではなく、実際には長江流域(上流・中流・下流)、黄河流域(上流・中流・下流)、北東の遼河流域の3つでそれぞれ発展し、交流もあったとされています。

そのうえで夏王朝や殷王朝とされているような黄河中流域の文化が文明の中心になっていったとされています。もっとも彼らの時代でも中央アジアや南方との交流の形跡が見られており、技術や文化は双方向的な伝播だったようです。

ロマン①陶寺遺跡

さて、夏王朝の前に活躍した堯舜についてですが、彼らについて殷王朝や夏王朝のように対応しそうな遺跡があるかどうかを考えると、中国では黄河中流域の「龍山文化」がその候補として挙げられています。

龍山文化は夏王朝のものと思われている二里頭遺跡(文化)が始まったとされる紀元前2000年ごろに終わったものと思われています。明確には分かりませんが、前3000年~前2000年くらいにあったようです。

この龍山文化の中で見つかっている遺跡に「陶寺遺跡」があります。これはwikiで前2500年~前1900年とあるように夏王朝のものと思しき二里頭遺跡とほぼ入れ替わりで滅んだ(or使われなくなった)都市と考えられています。

土壁で囲まれて宮殿も墓もあるほか、農業や手工業の形跡、社会階級の発展や宗教的な占いの形跡、生贄のような人骨も見つかっているという大きな遺跡です。興味深いことに太陽の角度から暦を定めるための天文台のようなものも見つかっていて、一説には2日ほどの誤差しかなかったそうです。本当なら凄いですね。

ことに堯は暦を定めたと歴史書にあるので、これも陶寺遺跡=堯の王朝「唐」と考える理由になっています。位置的にも二里頭遺跡に近く文化的にも繋がりが見つかるため、堯のものであっても辻褄は合います。

ロマン②石峁遺跡

龍山文化における遺跡でもう一つ面白い発見があります。それが陶寺遺跡よりも北部にある「石峁遺跡」です。時代としては諸説ありますが陶寺遺跡とおおよそ重なっていたと思われています。

この石峁遺跡でも城壁らしき土壁、ピラミッド状の宮殿などが見つかっており、龍山文化の特徴としての黒陶などもレベルの高いものが発掘されています。規模で言えば陶寺遺跡よりも広いとされています。

なお人骨の遺伝子調査によって、石峁遺跡で生活していた人々が陶寺遺跡に途中から住んでいたことが分かっています。出土品からも移住と言うよりは文化の上塗り(すなわち征服)ではないかと考えられていて、この石峁遺跡や陶寺遺跡の文化が二里頭遺跡に関連性が見られることから次のような仮説が生まれています。

堯の国「唐」=陶寺遺跡
舜の国「虞」=石峁遺跡

少々都合が良いですが、後の王朝につながるような文化を持った大規模な都市があったのは事実であり、考えてしまう気持ちはわかります。なおこの説はさらに発展します。

ロマン③2200年前の寒冷化

科学的な調査によって、今から4200年前、したがって紀元前2200年前ほどに大規模な寒冷化があったことが分かっています。世界中で古代文明の滅亡や衰退が見つかっており、日本でも三内丸山遺跡の滅亡がこの時期だと分かっています(寒冷化が直接の原因かは不明です)。

そしてこの前2200年というのは、ちょうど中国の黄河流域では龍山文化の後期に当たり、前2200年から少し経って陶寺遺跡も石峁遺跡も放棄されています。このことからこのような仮説が生まれています。

「舜=石峁遺跡」の人々が「堯=陶寺遺跡」を征服して移り住んだのは寒冷化が原因ではないか。そして寒冷化がさらに進んで龍山文化が衰退したところに東南の良渚文化の人々と合流して「夏王朝=二里頭文化」が生まれたのではないか。

やはり都合の良い考えではありますが、実際に二里頭文化には龍山文化と良渚文化の影響が見られ、そして入れ替わるように龍山文化と良渚文化は滅んでいます。

良渚文化は世界遺産にもなっているほどで、かなり発展していたもののこの時期に滅んでしまったと考えられています。長江流域で洪水と戦っていた人たちが、暴れ狂う黄河流域で自分たちの治水技術を伝えて……みたいなことも考えられます。ロマンです。

現実的には証拠不十分

ここまでロマン的なものを書いてきました。人によってはさらに発展させていたりします。いくつか紹介します。

「黄帝とは黄河流域の文化の比喩であり、黄帝が炎帝神農氏や神農氏の蚩尤と戦った阪泉の戦いや涿鹿の戦いは長江流域の文化との戦争のことを指しているのではないか」
(※良渚文化には四凶の饕餮の元ネタとされるものが見つかっており、饕餮=蚩尤は根強い説です)

「黄帝は公孫氏とあるが、これは北部や北東によく見られる名前であり、遼河文化の勢力が南下してきたのが元ネタではないか」
(※有名な公孫氏は戦国時代の哲学者・公孫竜、秦の改革で知られる商鞅(公孫鞅)、三国時代の公孫瓚など)

「黄帝は鄭州市の生まれとされているが、近年見つかった双槐樹遺跡は位置的に黄帝の元ネタではないか」
(※双槐樹遺跡は前3300年ごろにはあったとされ、時代的には龍山文化の前の仰韶文化の後期のものとなります。宮殿の跡などが発掘されています。)

繰り返しになりますが、これらはロマンであって実際の歴史として捉えるには証拠に乏しく、考古学的発見をなんとか歴史書の記述と対応させようとして仮説を展開しているがゆえに生まれたものと言えます。

したがってこれをもって「夏王朝はあった」「堯舜も実在した」「黄帝の戦いも元ネタは文化間の争いだった」と語ってしまうのは歴史の語り手としてはNGですね。小説家ならOKです。

中国における考古学的発見をすぐに歴史書の記述と対応させようとする傾向には批判的な見方がありますが、それを彼らがメソポタミアやエジプトに対抗心を燃やしているから(自分たちの歴史が最高だと信じたいから)とだけ考えてしまうのは、少し性格が悪いように思います。

かつては殷王朝すら実在を疑問視されていたところ、ほんの100年ほど前に考古学的発見によって存在が証明されたという経緯があります。それは史記に代表される史書の記述に対する疑いの目を晴らしたということでした。(※史記も一部記述に誤りがあるのは確定していますが)

歴史を重んじる中国の人にとって、極めて評価が高い歴史書を記した司馬遷の「なるべく正しく歴史を後世に伝えよう」という歴史家としての姿勢は心から尊敬しているのでしょうし、その司馬遷は多くの資料に目を通し人々に取材したうえで取捨選択して史記に記していることから、殷王朝同様に彼の記述はきっと仮想の神話などではないと信じたい気持ちは私は理解できます。

文字が殷王朝後期の殷墟以降からしか見つかっていないことから(単体の符号は殷墟以前にも見つかっています)、夏王朝すら実在したと語るのは難しいのが現実です。しかし何かしら王朝のような文化があったのは確定しており、考古学的発見により今後もロマンが展開されていくことでしょう。

で、何千年なのか

本場である中国において「中国史の始まりは何年なのかを決定しよう」というプロジェクトが最近ありました。それが「夏商周断代工程」であり、調査の結果としての決定版が「夏商周年表」です。

ここまで書いてきた「紀元前~~年とされています」のような記述も主にこのプロジェクト中にそう判断されたもので、実際には史記と竹書紀年でも年代に差が見られることから確定してはいないのですが、中国ではそういうことになっている、という風にとらえてもらえたらいいです。差があると言っても数百年ではないので。

さて、改めての振り返りも兼ねてまとめると……

  1. かつては周王朝から考えて中国3000年の歴史としていた。
  2. 殷王朝の実在が確定したことで中国の歴史は3600年に拡大した。
  3. 二里頭遺跡らを夏王朝とした場合、4000年の歴史となる。
  4. 堯舜ら五帝も龍山文化の時代の王朝とした場合、4500~5000年の歴史となる。
  5. 黄帝を仰韶文化の時代の王朝とした場合、5000年以上の歴史となる。

したがって、キリの良い数字で考えて以下のような結論とします。

  • ロマンを認めない人は3500年
  • 語呂を重視したい人は4000年
  • ロマンを信じたい人は4500年
  • 夢を追い求めたい人は5000年

皆さん、ご自由に呼んでください。

ちなみに私は中国も好きだしロマンは追い求めたいし司馬遷を信じていますが、歴史好きとして流石に堯舜までは認められないので、語呂よく「中国四千年」派です。