朱元璋 〜中国史最大の成り上がり〜

日本史において「一番の成り上がり」といえば、やはり豊臣秀吉でしょう。

では中国史において「一番の成り上がり」といえば、誰になるでしょうか。

高校の世界史を勉強していた人、また中国史に興味のある人であれば、おそらくこの人物を挙げると思います。

聖賢にして豪傑にして盗賊。僅か一代で中国の最下層からてっぺんまで上り詰めた男、朱元璋です。


本物の最下層

朱元璋は農民出身ですが、一口に農民と言っても農民の中でも特に苦しい境遇でした。

まず朱元璋の名前は元々「朱重八」というのですが、これは従兄弟も含めた中で八番目の男児だったという理由でつけられた名前です。
ちなみに父親の名前は「朱五四」。生まれた時の両親の年齢が足して54だったという由来だそうで、この名前の付け方から既に伝わってくるものがありますね。

それに朱元璋が生まれ育ったのは鍾離(有名な南北朝の「鍾離の戦い」の鍾離です)ですが、そこに定住していた一族とかではなく転々として流れ着いてきたという経緯で、もはや流民という表現の方が近い境遇だったと言われています。

洪水で土地は流され飢饉となり疫病も流行ると、僅か20日ほどの期間に両親と長男が死んでしまいます。残された次男と朱元璋は墓に埋めることすら苦労し、やがて近所の婆さんの紹介で朱元璋は寺に行くことになりました。このとき朱元璋まだ10代です。
(※余談ですがこの時に墓のため土地の一部を譲ってくれた人物や寺を紹介してくれたお婆さんには皇帝になってから手厚く恩返しをしています。悪辣なイメージのある朱元璋ですが、彼は義理堅い人物です)

この天災を前にした無力さはまさしく最下層ならでは。
なおこのときが朱元璋は兄弟との最後の別れだったといいます。次男とはもう会えませんし、姉2人も既に嫁いでいたのですが後に出世した頃には既に病没してしまっているんですよね。その姉2人の子供である甥っ子とは後に出会い、彼らは建国の功臣として活躍します。まぁその後は……。

さて寺にいった朱元璋ですが、2か月ほどで托鉢に出ることになります。托鉢と言っても大して経も覚えていない身、みんなが苦しんでいる中で満ち足りた生活ができたはずもなく。その生活は我々には想像することもできません。そんな生活がなんと3年近くも続きます。
当時を振り返る朱元璋の言葉は重いです。

ようやく寺に戻ってきて、そこから何やかんやで反乱軍に参加し、出世して独立して群雄になって決戦に勝利して……。気になる人はwikiなり本なり読んでください。張士誠はちょっとアレですが陳友諒は天下取りのライバルに不足ない人物です。個人的な見解としては隋末の李密より一回り上手の人物ですね。

朱元璋は70歳近くまで生きていますが、明を建国して元を北に追いやったのは40歳ごろ。つまり成り上がりきったところで人生の折り返しなんですよ。そこがまた特別なところですよね。長い人生の末に上り詰めてエンドではないんです。

“成り上がり”の中でも特に大物

中国の歴史が何千年かは解釈によりますが、一般には3000年は超えるでしょう。
それだけの歴史があり国土も広く人口も多ければ、当然それだけドラマも多いわけで。

成り上がった人物自体は朱元璋以外にもそれなりにいるわけですが、彼らを差し置いて一番に挙げられるだけのスケールの大きさが朱元璋にはあります。

いくつかの成り上がりたちと比べてみましょう。

漢の高祖 劉邦

中国初めての統一王朝・秦は、その初めから綻びを見せていました。始皇帝死後には陳勝と呉広による反乱を契機に中国に戦国が帰ってきましたが、その中で台頭し強大なライバル・項羽を倒して漢を建国したのが劉邦です。

同じ農民出身ということもあり朱元璋とはよく比べられます。
漢民族ですし、出身も結構近いんですよね。あとはまぁ粛清するとこも。

ただ劉邦って40歳くらいまで町でごろつきやってた人物で、大して仕事もしてなかったみたいなんですよね。両親も生きていましたし、農民階級とはいえ生活にはそんなに困っていなかったと思われます。

それに初期メンバーとして蕭何とか曹参みたいに政治のできる人物がいますよね。地元の行政官を味方にしての決起です。朱元璋の初期メンバーは基本腕自慢の農民ですからね。そこの差は小さくない。
あと個人的には徐達も曹参クラスな気がしてしまって……。いや曹参めっちゃ好きですけどね。でも将軍としては韓信には劣ります。

後趙の高祖 石勒

漢王朝が滅び三国時代と西晋による束の間の統一を経て、五胡十六国時代という大混乱に突入した中国。その中で成り上がって台頭した皇帝の一人が石勒です。

元々羯という異民族の中で、小さな部族の長の子に生まれた石勒。しかし飢饉により解散したところで時の王族による奴隷狩りに遭い売られてしまいます。

一時は奴隷の身にまで落ちた石勒。そこからタフな生命力や姑息さ(褒め言葉)で成り上がっていき、ついには華北を統一した王朝・後趙の建国にまで至りました。

奴隷からの成り上がりといえば石勒もかなりの身ですが、まず石勒は中国全土の統一はできていません。それに奴隷といっても、たまたま理解ある人物に買ってもらえたおかげですぐ自由になっているんですよね。

数年にわたって托鉢僧をしていた朱元璋の方が、やはり成り上がり度は上だと思います。ただ石勒は朱元璋同様に勉強熱心ではありましたが最後まで文盲(文字が読めない)だったそうです。そういう点では短期間でも塾に行ったり寺で学んだりしていた朱元璋の方が恵まれていたかもしれません。
まぁ時代も1000年くらいの差がありますからね。

南朝の建国者たち

まず劉宋を建国した劉裕は普通に下級役人の家柄で、ただし両親を若くして亡くしたために貧しかったというパターン。農業や草履売りなんかで生計を立てていたそうですが、とにかく強くてあっという間に出世。

劉裕は五胡十六国時代の滅ぼした国の数で言えば確かトップなんですよね。南朝側から北伐を成功させているのも桓温とか陳慶之とか僅かですし、桓温や陳慶之と違って劉裕は洛陽や長安に興味あんまりなさそうなので、そんな失点だと思いません。

ただやはり一地方政権の劉裕と朱元璋ではスケールが違うのと、劉裕って同時代の強いメンバーとは戦争でぶつかってないんですよね。まぁそれも優秀な証なのかもしれませんが、光武帝のように相手があんまり強くなかったように思えてしまって、そこが物足りないですね。

南斉の蕭道成も下級の家から軍人としての成り上がり。
蕭衍はパスするとして陳覇先も成り上がり。劉裕よりも険しい立場ですが、そもそも当時はもう北側が圧倒的優勢の時代で南は縮小していますし、すでに下剋上の流れがある中での成り上がりは私はあまり評価できないかなと思っています。

後梁の太祖 朱全忠

豊かではない境遇で不良になっていた朱全忠

姑息さで成り上がったという意味では石勒に近いところがあります。この「全忠」というのは唐の反乱を鎮圧した功績で唐の皇帝にもらった名前なんですが、その唐を滅ぼしますからね。なんなら元々反乱軍側で成り上がったのに唐に寝返っていますし。

人に嫌われるタイプで李克用にも毛嫌いされていて、正直人間として小物感が拭えないんですよね。実際、この時代の主役は李克用だったと思います。

朱元璋には実績も人物も遠く及ばないですし、まず彼はライバルに勝てないまま死んでいます。李克用には戦えていましたが戦争の強さでは相手になってないですよね。

中華人民共和国の太祖(大嘘) 毛沢東

毛沢東は地主の息子に生まれていたので境遇としては劉邦よりもう少し恵まれてるくらいの認識です。

たださすがに時代が下りすぎてて個人が成り上がるのはかなり難しく、特に共産党の中でトップに立つまでもトップに立ってからも基本逆境ですからね。かなりの成り上がりなことは異論ないと思います。

毛沢東の場合は詩のセンスも凄くて、朱元璋も頑張って素朴な詩を残したりしていますが、毛沢東は詩人たちからも褒められるレベルですもんね。毛沢東ってなんかこう響く言葉多いんですよね。やたらと壮大

20世紀なので生々しい「なんやねんコイツ」エピソードはめちゃくちゃありますけど、私は毛沢東って1人の人間として嫌いになれなくて。
彼って現代に生きてたら大学受験で失敗して浪人して私立大学の遊んでる学生に呪詛吐いてるような捻くれた歴史好きのオタクになってると思うんですよ。
まぁそれってほぼ私なので、だから嫌いになれないのかもしれません。

そんな毛沢東と朱元璋はよく比較されますが、私は2人は結構違うと思っています。毛沢東の方が恵まれていますし、彼は革命家や軍人としてはこの時代屈指の人物だとは思いますが内政の能力はまるでありません。あげく文革を起こしていますし……。

朱元璋は粛清こそ苛烈でしたが民には基本的に優しいというか仁政を敷いていますからね。法の整備なども(臣下の儒学者たちが優秀だったのは言うまでもないですが)高い評価を受けています。軍事ではどっこい、謀略では毛沢東が上、内政では朱元璋が上くらいが妥当な評価ではないでしょうか。

あなたも朱元璋を語ろう

朱元璋って聞くと、「成り上がった」「めっちゃ粛清した」「顔はブスだった」というイメージだと思うんですが、すでに書いてきたようにそれだけではありません。

奥様想いで馬皇后を凄く大切にしていますし、自分を拾ってくれた郭子興には一貫して義理を通していますし、苦しい時に助けてくれた人物たちは手厚く恩返しをしています。皇帝になった後に「中都」として地元に都を建設しようとするのも地元に栄えてほしいと思っていたからじゃないでしょうか。

彼は凄く優しく、義理堅い人物だったと思います。
彼が儒学者たちに学んで徳に基づいた政治を志したのも、托鉢僧として苦しい時代に人に救われてきた記憶(同時に民とは違い苦しんでいなかった官吏の記憶)は大きいでしょう。

結果として多くの人物を粛清していますし、粛清が疑われているグレーの人物も多くいます。病気にもならず永楽帝の治世下まで無事だったのは、主だった中ではそれこそ郭英くらいじゃないですかね。

もちろん粛清は褒められたものではありませんが、息子がもっとしっかりしていればまた違ったのではないでしょうか。それこそ馬皇后との間にちゃんとした男の子が産まれていれば……。

あとはまぁ徳の政治を目指したいけれど現実を知りすぎていた朱元璋としては、皇帝(自分)が悪者になる形での恐怖政治は仕方ないと思っていたのかなとも思います。下に優しく上に厳しくみたいな。まぁそれにしても殺しすぎだろとは思いますが。

臣下のことを嫌いになったとか恨んだってことはないと思うんですよ。好きでいることと信じられなくなることは両立すると思います。ともに命がけで戦ってきたかつての仲間を殺していくのは、彼だって辛かったと思うんです。最初の粛清である邵栄を斬るときには泣いたと言われていますしね。

後継者に関しては李世民だって上手くいっていないですし、趙匡胤は弟に殺されていますし劉邦も嫁が暴れていますし毛沢東は文革とかいうはた迷惑なことをしているので、朱元璋がとびぬけて悪いとは思いません。後漢(東漢)を見ても粛清しないのが良いとは思いませんし。

一人で中国を彷徨っていた二十歳前後。成りあがって結婚して部下が増えて皇帝になって、そしてまた一人になって死ぬ。

彼が死ぬときは皇帝になってからの時間の方が貧しかった時代と同じか寧ろ長くなっていますが、彼がその命の終わりを悟ったときに何を考え思い出していたのかは、私は一口で表せないと思います。

大げさな表現をあえて使えば、私は朱元璋という人物は中国史でも最もスケールが大きい人物だったと思います。だからこそ、彼のことをもっと沢山の人に語ってほしいなと、そう思うわけです。

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