感想と学び12作目「オッペンハイマー(原題:Oppenheimer)」

今までインプットをおざなりにして生きてきたことを反省し、アニメや映画やラノベを見てブログに感想と学びを書いていこうと思い立ちました。

そうして始まった【感想と学び】シリーズの12作目、映画【オッペンハイマー】を書いていきます。

ネタバレもちろんあります。作品の説明は最低限にしかしません。

※今回、長いです。


簡単な紹介

実在した科学者オッペンハイマーの伝記となる作品。
Wikipedia曰く伝記小説を映画化したものらしい。

物理学者のオッペンハイマーが色々ありながらも原子力爆弾を開発し、しかし戦後になって原水爆の開発に否定的だったこともあり赤狩りの延長で責められるという内容。

日本での公開が1年以上遅れたという意味でも話題作ではあったが、原爆についてもその是非を問うような内容になっており、特段日本人が見て憤るような内容ではなかった。(※個人の意見です)

感想を書く前に

内容が内容なだけに、ブログを書いていく前に前提となる私のスタンスを書いておきます。

私は原爆については当時の米国民を批難するつもりはありません。開発した科学者たちを批難するつもりもありません。彼らに対して怒りの感情はありません。

また核爆弾による抑止について、実際に大国間での大規模戦闘は抑制しているので一定の寄与はしていると考えています。核保有国への大規模侵攻は起こっていないからです。その一方でこれがずっと続いていくかというと私はそうではないと思います。恒久的な平和は、平和の定義にもよりますが難しいでしょう。

既に「使える核」なんて話もあるくらいですし、環境問題から人類はやがて地下やシェルターに棲むようになると私は予想していて、そうなれば核爆弾は使えてしまいますよね。まぁそれが私の生きている間の出来事なのかは分かりません。というかそんなSFじみた話でなくてもⅠ国やP国あたりが切羽詰まって打つ可能性もありますが。考えたくもないですね。平和が一番です。

思想はその辺にするとして。

今回の記事では学びは書けないです。

まず原作小説も読んでいなければオッペンハイマー自身についても知らないので、どの部分が史実でどの部分が脚色なのか分からないんですよね。だから構成やセリフについても言及するのが難しいなと。

視覚的な部分だとかも思うものは色々ありましたが、これは見返せないので難しいです。
なんせ長かったんですよ。3時間くらいありました。

さて、感想と考察を書いていきます。

理論の限界という批難と擁護

オッペンハイマーは実験が苦手な理論物理学の学者でした。

彼が教授としてアメリカで教えるとき、隣室だった教授ローレンスは実験物理学の専攻。
作中何度も「理論には限界がある」と言った風なセリフが交わされます。

これはオッペンハイマーらが理論によって辿り着いた原子力爆弾が彼らが思っていた以上に(彼らからしても)悲惨な結果を生んでしまったことへ係ると同時に、理論によって原子力爆弾を考えだし生み出すのと実際にそれを使用するのとでは隣り合っていながら別問題なのだということにも係っていると思います。

つまり前者は作品における科学者たちへの批難であり、後者は擁護なのではないでしょうか。

科学者たちは原子力爆弾の破壊力を計算できており、それが爆弾一つで都市を破壊できるものだと分かっていました。しかし彼らは広島で撮られたとされる被爆者たちの写真を見て言葉を失うことになります。オッペンハイマーもその写真を直視できません。

ただ投下された爆弾を作ったのは他でもない彼らであり、原爆が投下されたときは大はしゃぎしていたのに凄惨さを知ってから「こんなはずではなかった」なんて言うのは、少々都合が良いとも言えますよね。そういった批難が作品からは感じられました。

そして後者ですが。
原爆投下後にオッペンハイマーを原爆の父として招待したトルーマンは、核開発の更なる継続に難色を示すオッペンハイマーのことを弱虫だとして馬鹿にします。そんなトルーマンのセリフで「恨まれるのは私であって君ではない」という風なものがありました。

科学者たちが何を言おうが、生まれた原子力爆弾は使われる運命にありました。トルーマンが求めたのは理論ではなく結果。都市をまるごと吹き飛ばすかつてない規模の爆弾だったのです。

オッペンハイマーらはあくまで自分たちの研究の成果物として原子力爆弾の可能性を計算し、指示されて開発したに過ぎなかったと言えるでしょう。そういう擁護にもなっていると思います。理論だけでは人は死なないんです。

オッペンハイマーの性格について

主人公オッペンハイマーは、言ってしまえば自己中心的な人物でした。
(※この作品における設定の話です)

実験が嫌いでテキトーにやり、腹が立てば青酸カリで教授を殺そうとし、女に惚れれば不倫も平気でするし、愛人には要らないと言われても毎度花を持っていく。略奪婚の妻との間に子供を作っても、子育てを放棄して親友に預ける(しかも夜に)。

彼は自己中心的であり、単純でした。
頭は複雑なことを理解できるのに、心は極めて純粋です。

純粋な彼は、原子力爆弾の開発が成功すると日本への投下に日和るような態度を見せます。彼の中にある道徳心は大量殺戮兵器を許容せず、実際に投下されてから罪悪感に苛まれるようになりました。

しかし、じゃあ核開発自体に反対するのかと思えばそうではなく、どっちつかずな言動をします。原水爆の開発には「それを作るとソ連も開発するから歯止めが効かなくなる」ともっともらしい理由を並べて反対しますが、それは原爆だって同じことですよね。

聴聞会でオッペンハイマーはそのことについて「人類は武器があれば全て使うと知ったから」と釈明していますが、果たしてそうなのでしょうか。

この映画で彼が最も動揺し憔悴するのは、原爆の被害を見たときでもなく、フックスがソ連のスパイだと聞かされた時でもなく、聴聞会で出来レースの尋問を受けている時でもありません。愛人のジーンが死んだことを知ったときです。それはジーンの死だけは彼が予期できなかったからではないかと私は考えます。

逆に言えば、ジーンの死以外は彼の予想を超えたものではなかったのです。

オッペンハイマーは原爆の被害を実際の写真を見る前に演説の時点でイメージしています。ラストシーンで明かされますが、彼はミサイルの話を聞く前からミサイルが飛び交って世界が核で燃やし尽くされるイメージもできています。その未来を予想できているんですよ。

聴聞会もそうで、オッペンハイマーは追放が確定したあと、妻のキティに「世界は貴方を許すだろうか」と聞かれて「やがて分かる」と答えます。これは後述するアインシュタインとのやり取りから、いつかこうして自分が責められることを分かっていたんです。

彼の純粋な心は深く傷ついているのですが、一方で彼の頭はこの状況を予期できていて、妻キティに指摘されるように原爆の父として「殉教者」になろうとするんですね。結局は自分のことしか考えていないという風に描かれています。

なぜ出来レースの聴聞会で戦うのかと聞かれたときに彼は「アメリカを愛しているから」と答えていますが、そうではなく、彼は「原爆の父」でありたかったのです。だから自身では開発できない原水爆に対しては開発に反対していたのです。

彼が原水爆に反対したのは「原水爆の父」にはなれないから。
彼が核兵器自体には反対しないのは「原爆の父」だから。

テラーは彼のちぐはぐな言動を「理解できない」と語ります。
彼を単純な男だと思っていたストローズは実に滑稽な勘違いをしていて、足元を掬われることになります。

最期のシーンで、どこまでも自己中心的で純粋で分かりやすい科学者だったオッペンハイマーが、何を考えているのか分からない不気味で恐ろしい世界の破壊者になります。

それがこの作品の〆でした。

ラストの演技が素晴らしいですよね。
原爆の罪悪感に苛まれたり聴聞会で詰められている時とも違う顔に見えます。
あのラストカット、監督はどんな表情をリクエストして、役者はどう解釈したのでしょうか……。

カラーと白黒

本作では3つの時間軸があります。

1、オッペンハイマーが核開発に成功し称賛されるまで。
2、オッペンハイマーが聴聞会で詰められているさま。
3、ストローズが公聴会で詰められるさま。

1と2は主観でありオッペンハイマー視点。3は客観でありストローズ視点。

1と2はカラーですが、3は白黒。
シーンが小刻みに切り替わるので分かりやすくするのが目的でしょうが、もちろんただ便宜的にそうしているだけということはなく、その演出にもしっかりと意味を持たせています。

オッペンハイマーは、原子力爆弾によって「神から炎を奪った」のです。
だからオッペンハイマーの主観はカラーなのに、客観のストローズ視点ではモノクロになっています。

オッペンハイマーによって破壊された世界は炎を奪われて光を失っているというわけです。

しかし、何故この物語をオッペンハイマーの主観で終わらせなかったのでしょうか。
どうして白黒の客観視点を用意したのだと思いますか?
だってそうですよね。核兵器の開発者としての苦悩と葛藤を描くだけなら、オッペンハイマーという人物の人生をなぞっていけば良い。でもそうはしなかった。

私は、監督による自己批判も含めたものではないかと感じました。

実在したオッペンハイマーという人物の人生を記録から疑似的に追体験し「彼はこう考えていた」などと勝手に考える。歴史上の人物を扱うとはそういうことになります。

しかしストローズはオッペンハイマーとアインシュタインの会話について「俺を無視するように言ったに違いない」などと見当はずれの勘違いをしていました。それは滑稽に映るのですが、我々がすでに故人となっているオッペンハイマーについてあーでもないこーでもないと語ることもまた、ストローズと同じように滑稽な勘違いをしている可能性が当然あるわけです。

歴史上の人物を扱った本作を視聴する上での注意喚起と、半ばの皮肉がこもっていると私は受け取りました。

また、これは深読みですが、発想を飛躍させてみましょう。

オッペンハイマーは上述の時系列だと2の聴聞会にて詰められます。一方でストローズは3の公聴会にて詰められることになります。そういう意味でこの二人は対比になっています。

オッペンハイマーとストローズは、その自己中心的でプライドの高いところが似ています。しかしオッペンハイマーは原爆による被害や赤狩りの対象となることに対して内罰的(自責思考)になりますが、ストローズは自らが詰められることに納得しておらず最後まで外罰的(他責思考)です。

つまり主観では内罰的、客観では外罰的。
これって核兵器に対する現代人の姿勢を皮肉ったものとも捉えられませんか?

核保有国(および核の傘に守られている国)の国民の多くは、核兵器はよくないものだと言いながら核兵器を放棄することはしません。アメリカ人は原爆の被害に胸を痛めながら、今でも数千ともいわれる核爆弾を抱えています。このちぐはぐさを、相手が核兵器を持っているから仕方のないことだとして都合を合わせています。

この映画を見た多くの人が「核兵器なんて開発するべきではなかった」と人類を総括しての自責思考になるでしょう。そして同時に、私達は「しかし核兵器は存在してしまっている以上は無かったことにできない」と先人達への他責思考になるのです。

オッペンハイマー視点だと原水爆の開発は人類が罪を重ねて破滅に向かっているように感じるのに、客観であるストローズ視点だとオッペンハイマーが原水爆の開発から逃げようとしている軟弱な男に感じ、何を恐れているんだ原爆を作ったのはお前じゃないかと言いたくなります。

主観による自己批判と客観による批判をそれぞれ見せることで、核兵器に対しての多角的な視点を視聴者に持たせようとしていたのかもしれません。

……まぁ、やはりこれは深読みでしょうね。
そういう楽しみ方もあるということで。

オッペンハイマーとアインシュタイン

本作ではオッペンハイマーとアインシュタインとの会話が3度あります。
(※正確には聴聞会期間中も含めて4度です)

最初に白黒で、つまりストローズ視点で、オッペンハイマーがアインシュタインに話しかけていき、話し終わったアインシュタインは笑顔を失いストローズを無視します。

二度目はオッペンハイマーが原子力爆弾が大気に引火して世界を破壊してしまう可能性にあたったことを相談したときで、アインシュタインは「もし計算の結果が世界の破滅になると思ったら計画を中止し計算結果を公開(ナチスに伝える)して世界を救え」と言います。
これは主観なのでカラーです。

三度目となるラストシーンもカラーで、冒頭のストローズ視点では分からなかったオッペンハイマーがアインシュタインに話しかけていた内容が判明します。
アインシュタインに「君は自分の行いの責任を取らなきゃいけない。これから裁かれて許されるだろうが、それらは君のためではない」と言われ、対してオッペンハイマーは「前に世界を破壊してしまうかもしれないと伝えたが、(それは実現しなかったように思われているが)、私は破壊したのだ」と伝えます。

まず整理すると、アインシュタインはオッペンハイマーより人生の先輩です。
そして彼はオッペンハイマーの未来を示唆する存在でした。

若くして偉大な科学者と称えられたアインシュタインでしたが、やがて物理学では老いぼれた古い人間と呼ばれるようになり、責められた彼は国を捨てます。そんな彼を若き科学者であるオッペンハイマーは表彰した間柄です。アインシュタインはそのオッペンハイマーからの表彰について「君自身のためだ」と語ります。

オッペンハイマーも同じ道をたどっていきます。原爆の父として称えられるものの、聴聞会で尋問され追放されたのちに再評価されて表彰されます。これもまたアインシュタインが言うには「核兵器の開発者としての君を咎めたことを許してもらうためのもの」なのでしょう。

しかしオッペンハイマーとアインシュタインには違いがありました。

オッペンハイマーはアインシュタインと違って祖国を捨てません。オッペンハイマーはそれを「アメリカを愛しているから」と語っていますが、上で書いたようにオッペンハイマーは原爆の父でいたかったからアメリカを捨てなかったのでしょう。やがて自分が再評価されることを分かっていたのです。

さらにオッペンハイマーは核兵器の開発によって胸を痛めているように見えて(実際に純粋な心では痛めているのですが)、アインシュタインの世界を破壊しそうならというアドバイスに対して「私は世界を破壊した」とわざわざ報告しています。やってしまった後に後悔しているように見えて、やる前からオッペンハイマーは分かっていたんです。

絶句したアインシュタインはストローズを無視して去っていきます。そりゃそうですよ。数十万人が死んで世界中で核開発競争が始まるのを分かってて止めなかったんですから。てっきりオッペンハイマーは自分のやったことの大きさにショックを受けていると思っていただろうアインシュタインからしたら、こいつ正気かよって感じですね。神にでもなったつもりなのかと。

このあと、オッペンハイマーは降ってきた雨から無数の核ミサイルが飛んでいく画をイメージし、雨によってぽつりぽつりと広がっていく波紋を核ミサイルによる炎としてイメージします。世界が核爆弾で破壊されていく想像です。

それを見ているオッペンハイマーは、いったい何を考えているのでしょうか。

ちなみに聴聞会中のアインシュタインとの会話は時系列で言うとラストシーンよりも後で、そのときはアインシュタインはアメリカなんか見捨てちゃいなよと言っており、オッペンハイマーはアメリカが好きだからねと拒否しています。

世界の破壊者となったオッペンハイマーは、世界の破壊者として裁かれるためにアメリカを去らないのです。オッペンハイマーの中にある自己基準では、世界の破壊者、原爆の父であることが彼を満足させていたのでしょう。

感想

面白かったです。めちゃくちゃに面白かったです。

伝記映画としても楽しめますし、原子力爆弾の開発というプロジェクトが進んでいくのは、恐ろしさもありますが若干の高揚感もあります。(不謹慎ですみません)

しかし作中でラービの台詞にもありますが、物理学を研究していった先に作り上げたものが都市を消し飛ばす大量殺戮兵器だというのは、なんともやりきれないものがありますね。もちろん量子力学のおかげで豊かになった生活は間違いなくあるので、その恩恵を享受しておきながら否定するのは卑怯だとは思いますが。

役者さんの演技も素晴らしいものでした。特に主演のオッペンハイマーは素晴らしかったです。

准将も良かったですね。オッペンハイマーらの自由な振る舞いに怒りながらも、プロジェクトの成功を急がねばならない立場上、その奔放さを容認せざるをえない難しさがありました。オッペンハイマーはかなり自分勝手なので、准将の胃のキリキリ具合も共感できます。

あとローレンスの顔が好みでした。(知らんがな)

演技と言えばですが、唐突にベッドシーンが挿入されるんですよね。
共産党の会合でジーンと知り合ったときです。

「(思想的に)僕は揺れていたい」 → SEX

いや揺れるってそっちかーい、みたいなね……。
それいる?って感じではありました。

でもまぁこれがあるからR指定されているわけで、内容が内容ですし演出も子供にはショッキングだったかもしれず、これで良かったのかもしれません。何ならR指定入れるためにベッドシーン入れたのかな。それはないか。

最後に。

この映画の日本での公開開始が一年以上遅れてしまったことは、非常に残念でした。

既に書いているように、日本人が見ても腹を立てるような内容ではないと思います。むしろ原爆投下(それも二都市)の是非を問うていますし、核抑止論に対しても「人は武器があれば必ず使う」というオッペンハイマーの台詞からも問いを投げかけていると言えますよね。

もしこの作品で広島や長崎での被害が直接描かれなかったことに怒る人がいたとして、私はそれには共感できませんね。もちろんアメリカ国民への配慮でもあるでしょうが、これはオッペンハイマーを描いた物語ですから。

もし核爆弾の被害を描写して核爆弾を否定する内容にしなければならないとして、そうやって作られたものは核兵器反対キャンペーン映像ですよ。核廃絶団体のコマーシャルじゃないですか。必ず面白い黒人と優秀なアジア人とたくましい女性を入れなければならないみたいな、そんなノルマは表現を狭めるだけですし不自然です。

この作品の公開にあたって慎重になってしまうくらいには日本における表現の自由とは頼りないものであり、同時にこの作品がそれでも公開され多くの観客によって観劇されていることは、この国における表現の自由に救いがあることを意味しているなと。

私から言えることは、ただただ、この映画は素晴らしい作品であったということです。

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