世の中には多くのアニメがあり、多くの物語があります。
そのなかにおいて特に脚本や演出や作画のクオリティが光る神回を見ようというのが、このシリーズです。
アニメのプレゼンではなくココが良い!という感想を書くのが主目的なので、ネタバレは含みますがシナリオの解説はしません。
この記事を開く時点で未視聴の人はほぼいないだろうということで世界観やキャラの説明もしません。
仮にそういう方がいたら先に見るかWikiとかを見ながら読んでください。
※なおこのシリーズでは演出の説明などのために本編シーンの一部を引用しております。著作権には最大限の配慮をしているつもりですが、ご指摘あれば削除します。
ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期5話
今回紹介するのは、私が愛してやまない「アニガサキ」の2期5話です。
前回は1期2話を書いているので、良かったらそちらもご覧ください。
なぜ今回アニガサキの2期5話を取り上げたかというと、もちろん私が好きな回だというのはあるのですが、この回では作中劇が登場するからですね。
前回のアニガサキ1期2話においては脚本でのヘイト管理や丁寧さに注目しましたが、今回は作品の中に登場する作中劇の意味合いに注目しながら見ていきたいと思います。
作中劇の部分以外は、語りたいポイントだけ書いていきます。
※この記事の中においてはTVアニメ「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」2期5話より演出の説明のために本編シーンを引用いたします。
栞子とミアとランジュのポジション
まずは栞子。
冒頭のシーンです。
鏡に背を向けた栞子。
鏡に写るのは自分の姿なので、栞子は自分に向き合えていないことを意味します。
扉を背にしている栞子。
これも扉を閉ざしている、扉に背を向けているという表現です。
栞子はこの次の次の7話で心を開くことになります。
こちらはミアとランジュ。
2人とも閉められた窓を背にしている逆光の状態です。
どのキャラがどういう立ち位置なのか、分かりやすく提示していますね。
これは前回紹介したアニガサキ1期2話でも沢山紹介しました。
どっちに光があるとか、上手に誰がいて下手に誰がいてとか、そういうのを意識してみてください。
あと脚本的にはここでランジュに侑の曲を聞かせているのが素敵です。
ランジュが侑の音楽における能力やセンスを評価していると視聴者に見せることで、このあと侑へ「音楽科に集中するべき」と指摘することから嫌みを抜いています。
「あなたの音楽は素晴らしい、本気で取り組めばもっと出来るはずなのにどうしてやらないの」というニュアンスになりますからね。
光と影の表現
まずは三角コーン。
言うまでもないですが、それぞれのコーンはA・ZU・NAの三人を示しています。
ピンクは歩夢、赤はせつ菜、水色はしずく。
光が当たっている二人と、二人に向いているしずく。
ここでの光は陰陽ではなく舞台の照明でしょうね。
しずくは歩夢とせつ菜を舞台に立たせて観劇しているという構図。
自立している二人に対して倒れているしずくという構図でもあります。
どちらも分かりやすく今作前半のキャラの構図を表しています。
水色のコーンも先っぽに光が当たっているのが良いですよね。
しずくも舞台に立つ側の人間なんだよという風に汲み取れば、歩夢とせつ菜にしずくが手を引かれているようにも見えてきます。
お次は侑にしずくが相談を切り出すシーン。
しずくには光が当たっていて、侑には当たっていません。
ここでの光も舞台照明だと私は思っています。
観客でありマネージャーである侑とは違い、しずくはやはり照明が当たる側、演者側の存在なんです。
標識の小ネタ
電車のホームのシーンから。
エレベーターに乗る大人が三人の図。
もちろんA・ZU・NAの3人のことでしょう。
上にも下にも行ける、それは「3人は自由だ」という事と「一心同体だ」という事のダブルミーニングでしょうか。
このアニメ、結構標識の演出多いんですよね。
一方通行だとか、信号もそうですし、右に曲がるとか。
こういう記号を用いた表現って映像ならではですし、謎解きみたいで私は好きなんです。
作中劇①
と、ここで一つ目の作中劇。
しずくが電車の中で自分の考えてきた物語を侑に見せる場面です。
本編におけるセリフを引用します。
「恐ろしい姿であるがゆえに、愛する気持ちを少女に伝えられない野獣」
TVアニメ「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」2期5話より
「いっぽう、少女もまた野獣に惹かれていく」
「そんな二人が初めてダンスをする夜。たとえ言葉は交わさなくても、触れ合う手と手が互いの気持ちを物語る」
今回の記事で書きたい一番のことは、作品の中に登場する作中劇は何かしらの内容を示唆しているということです。
まずは野獣=ランジュ。
恐ろしい姿だという野獣は、いろんな人から畏怖のまなざしで見られて近寄りがたい存在となっている孤高のランジュを指しています。愛する気持ちを少女に伝えられません。
そして少女=同好会。
同好会もエマを筆頭にランジュのことを気にかけていきます。
触れ合う手と手が互いの気持ちを物語るというのは、言葉で語り合わなくてもお互いのライブパフォーマンスで通じ合えるし分かり合えるということです。
ランジュも同好会も、相手のパフォーマンスを見て心惹かれているんですよね。
上手かつ高いところにいる野獣(=ランジュ)が上、下手かつ低いところから見上げる少女(=同好会)が下。
ランジュの方がパフォーマンスは優れていることを示しています。
少なくとも同好会はそう思っているわけですね。
野獣役が歩夢さんっていうのも”あり”だと思うんですよね
TVアニメ「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」2期5話より
しずくの妄想は、もちろん視聴者へのサービスもあります。
ただこうも取れます。
「逆の立場も考えられる」と。
つまり野獣=同好会で少女=ランジュも成立する。
同好会に強く惹かれ、しかし同時に同好会を恐ろしくも感じるランジュ。
ランジュにとっては同好会は自分より上位の存在なんですね。
これは後の話数で示されます。
演出の話をすると、ここではせつ菜(野獣=ランジュ)が上手、上から歩夢(少女=同好会)に迫っています。そんなせつ菜の背中から光が差し込んでいる。
ランジュはミアと共に音楽を聴くシーンでも光を背にしていましたね。影を落としていることを強調されているキャラクターです。
ランジュには見えていない光、しかしその光はランジュを確かに照らしている。そしてその光が同好会には見えている。
前回1期2話の記事でも「かすみの背中から現れる歩夢が侑には見えている」と書きました。視線が上手側なのか下手側なのかだけでなく、視線の先に何があるかを意識しています。
歩夢とせつ菜の関係性
私がこの2期5話を好きな部分の一つに、歩夢とせつ菜の関係性があります。
次の2期6話も良いですが、個人的には5話を語りたい。
一つ目はこの電車内のシーン。
歩夢「真実を暴いてみせるんだから」
TVアニメ「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」2期5話より
せつ菜「探偵みたいで面白そうですね」
この一連の流れ、歩夢が侑としずくを追いかけて行って、たまたま居合わせたせつ菜を歩夢が自分の罪悪感逃れから巻き込んで連れてきているんですよね。
せつ菜がせつ菜としての格好をしていることから、(メタ的に考えなければ)せつ菜は何かしらオタク活動をするために外に出ているんですよ。方角的には秋葉原とか池袋でしょうか。
何にせよ後楽園(東京ドームのあたり。WINSもあるよ)に行くつもりはなかったはずです。
なので歩夢がやっていることって正直無茶というかちょっと酷いんですが、少し我儘言って振り回してるのも女の子らしくて良いなって私は思いますね。
歩夢ってそういうところあると思うんですよ。
周りに合わせる子だし強く自己主張していくほどの自信はないけど、自分の中に自分をしっかりと持っている子。だからスクールアイドル同好会を始めようって自分から侑を誘えるし、留学だって決断するわけです。決して周りに流されるだけの子じゃないし、言いたいことが言えない子でもない。
そしてこの脚本の素晴らしいところは、せつ菜の台詞ですね。
「探偵みたいで面白そうですね」
難しいことなんて何も考えてなさそうな笑顔が可愛いです。
せつ菜って、歩夢にとって侑がどれだけ特別な存在なのか、そしてそのことでどれだけ悩んでいたのかを知っているんですよね。これは同好会でおそらくせつ菜だけなんです。歩夢のもう一つの一面を知っているのはせつ菜だけ。
そういう背景があるので、歩夢に気を遣ってついてきてあげるとか、歩夢のことが(あるいは歩夢と侑の関係が)心配になってついてきてあげるとか、そういう描写の仕方も考えられますよね。
でもそれをしない。
それが本当に素晴らしい。特大の解釈一致でした。
歩夢に気を遣うとかじゃなくて、この状況自体を楽しむんです。
そっちの方がずっとせつ菜らしいなと思うんですよ。流れの中でその状況を楽しむ、そこに不満を言うでもなく何かを察するでもなく、せつ菜って頭は良いですけどこういうところは子供っぽいというか無邪気であってほしいなと。
そういう私の中のせつ菜像にぴったりと当てはまる台詞でした。キャラのことを深く理解して脚本を書いていれば、こういう台詞が生まれてくるんだなと感動します。
もう一つはこのシーン。風船持った女の子がこけそうになったのを2人が咄嗟に助けるシーンです。
歩夢はその子を支える。せつ菜はその子の大事なものを掴む。
それぞれのキャラクターを表しているようで素敵です。
この下からのアングルもヒーローっぽい格好いい構図で好きです。
下からの方が雄大に見えると言いますね。
幕間・印象的なカット
前回に引き続き、印象的なカットとかをぽんぽんぽんと。
(こいつ、シリーズ化するつもりだな)
コナンよろしく眼鏡がキラリと光るせつ菜。
眼鏡は仮面。せつ菜はわざわざ仮面をかぶって菜々になっていることを見せています。
まぁこれは1期でも果林との会話で触れていますね。
最後の観覧者のシーン。
ただ並んで座っている二人を横から見ているだけですが、キスしているように見えなくもないというファンサービスのカットです。
この前に歩夢が観覧車に乗れないことに反応しているんですよね。
細かいですけど、だからこそ侑の気遣いの細かさが感じられる良い仕掛けだなぁと思います。
ちなみにこの観覧車はもう無いんですよね……。
私はなくなる前に友人と乗ってきました。結構高くて景色も良かったです。
これは観覧車の中におけるラストシーン。
侑が「次はきっと、私の番なんだ」と言ってます。
栞子は鏡に背を向け、ミアとランジュも窓に背を向けていました。
対して侑は鏡に映る自分と向き合えています。
このシーンがあるから、ランジュにお説教くらったときに侑がその場しのぎで誤魔化したのでなく本当に自分と向き合えていて真剣に考えられていることを示しているんですね。
同時に侑が自らの問題を自認できていることはランジュの肯定にもなっていて、誰も傷つかないわけですよ。
私はアニガサキのこういう繊細な脚本が好きなんです。
これは遊園地明けで会話をしているシーン。
真ん中の棒(パラソルの脚?ですね)でせつ菜&歩夢、侑&しずくに分けています。
出演者である歩夢とせつ菜、プロデュースする側である侑としずく。
この回は舞台というものを繰り返し表現していて、舞台の上と外、出演者とそれ以外を分けています。
特に階段を使った表現が顕著にみられます。
最初に侑を見かける歩夢。プライベートなので階段を下りています。
侑としずくを尾行する歩夢とせつ菜。これも階段を下りています。
尾行していたが見つかったシーン。四人は階段の下で会話します。
キャラクターショーを見る四人。階段ではありませんが、客席にいます。
見返していただければ分かりますが、これまで階段を下りたり階段の下にいたりというシーンしかありません。
階段を上るシーンはないんです。
階段の下というのは舞台の下。ここまで四人は舞台の下、ステージの外にいるわけです。
そして観覧車が休止だという看板。前述したように歩夢が残念そうにします。
(ただしここでは侑は何も言いません。歩夢に気付けているのかと、視聴者を試しているような脚本ですね)
観覧車休止中のこの看板は「観覧が休止」っていうのに掛けていると思うんですよ。
観覧が終わる、つまりステージが始まる。
ここから先、歩夢とせつ菜は出演者になるわけですね。
それを意識させるようにせつ菜が栞子からの電話に中川生徒会長として対応するため眼鏡をかけるシーンがあります。
終盤、ステージ上で歩夢とせつ菜がエチュードをしているところに、観客の一人だったしずくが割り込んでくるシーン。
これはもうそのままですが、最後の最後に階段を上がってステージに上がる表現を持ってきています。
この回は客席から歩夢とせつ菜を見ていたしずくが、自身もステージに上がることで三人の「自由な表現」を完成させるという構成なんですよ。
それを印象付けるために階段を多く用いて、最後に上がったときにスッキリできるようになっています。
丁寧な作品ですよね、本当に。
作中劇②
ランジュからのありがたい言葉にしずくが流れ弾をくらったあと、せつ菜の提案で即興劇が始まります。
ここでも作中劇①と同じように「野獣=ランジュ」「少女=同好会」で考えてみましょう。
「私が恐ろしいのでしょう」と言う野獣に、「そんなことはない」と返す少女。
少女は「野獣のままでも良い、どう見えるかは気にせず今できることをやったら良い」と言います。
これは同好会から見たランジュです。
孤高の存在としてスクールアイドルをやっているランジュに、今できることから少しずつやっていこうと問いかける。
これは後の話数で出てくる流れですね。
野獣と少女がともに旅をするものの、二人の前に沢山の野獣が現れてしまう。
そこでしずくが魔女として舞台に上がり、あの野獣たちは心を改められなかった人間の果ての姿なのだと告げます。
ここでいう沢山の野獣とは、同好会と出会えなかったランジュのことです。
救われなかったランジュであり、同時にそういう人はランジュ以外にもいるということ。
彼らを助けるために、少女は歌おうと提案します。
王子を野獣にした魔女も誘って、三人で歌うことになります。
魔女とは侑のことです。2期で侑がステージに上がることも示唆しているんです。
主役はしずく
日陰のしずくに上手から光が差してきて……。
歩夢とせつ菜とともに光の方へ向きます。
ステージの観客であり光(照明)に背を向けていたしずくが、ステージに上がって照明に照らされる。
ここに至る構成だったわけです。
脚本の話をします。
今話のしずくは歩夢とせつ菜を出演者として少女と野獣に配役します。
しかし勝手に物語を組んだことを、ランジュの言葉をきっかけに「役に当てはめることで二人の自由な表現を奪ってしまった」と感じました。
虹ヶ咲はもともとがソロのスクールアイドル、それはそれぞれが自分のやりたいことを自由に表現するため。
在りたい形でのスクールアイドルでいたいから、自由のためにソロという道を選んだのが1期のストーリーです。
したがってしずくにとって先輩二人の自由な表現を奪うことというのは許せないことでした。
しかしスクールアイドル博物館に行ったとき、歴代のラブライブ優勝校の記録などを見ることで「(ソロではないのに)自由だ」としずくは感じます。
これはソロになることは自由な表現をするためだったけれど、ソロでなくても自由な表現をすることは可能なのだというヒントになっています。
何かヒントになるかもと連れて行った侑はさすがですね。
そしてせつ菜はエチュードを始めます。
ノリノリなせつ菜と、一生懸命なあまり予想外の方向にシナリオを持っていく歩夢。
そんな二人のステージはまさに自由なのでした。
最終的にしずくはステージに上がって二人と共に出演者となり自由に表現します。
しずくが作った世界観の中で、自由に表現する三人。
「ユニットという枠で括ることは個性も自由も損なわないんだ」というメッセージなのでした。
おわりに
改めて振り返ってみても、やはり構成や演出の美しさ、丁寧さが素晴らしいです。
さらには1期よりも作画はよくなっていますし、いや本当に素晴らしい回ですね。
歩夢と侑の関係性を描きつつ、しずくの提案によって自由な表現をするユニットが生まれる。
それらを舞台という一貫したテーマでくくっている。
誰も傷つくことないヘイト処理をしつつ、個々のキャラクターが活き活きと動いています。
この記事の最初に書いた作中劇は意味を持っているという話、共感していただけたでしょうか。
今後も劇中に物語が出てきたときは、何を意味しているのか、何かの比喩なのかを考えてみてもらえればと思います。
それが多少無理のあるこじつけでも、楽しければ全然いいと思います。
主要スタッフ(敬称略)
監督 | 河村智之 |
シリーズ構成 | 田中仁 |
脚本 | 伊藤睦美 |
絵コンテ | 戸澤俊太郎 |
演出 | 戸澤俊太郎 |
この伊藤睦美さんという脚本家さん、私大好きなんですよ。
大ファンなんですよね。お会いしたことなんてもちろんないけれど、尊敬してます。
東映の出身で田中仁さんとはそこからの付き合い。
田中仁さん同様にプリキュアの脚本もやっていらっしゃるのですが、プリキュアファンなら「え、あの回もこの回も⁉」ってなると思いますよ。
代表的なものを挙げると、私がプリキュアシリーズで最も好きなフレッシュプリキュアの24話(せつ菜加入回)、フレッシュプリキュア40話(ラブママ入れ替わり回)。
他にもいろいろあります。ハートキャッチプリキュアの新聞部の回とか。
田中仁さんがシリーズ構成を務める作品によく呼ばれている方です。皆さんもぜひ覚えてください。
いつかお二人のような脚本が自分にも書けたらなと思います。
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