今までインプットをおざなりにして生きてきたことを反省し、アニメや映画やラノベを見てブログに感想と学びを書いていこうと思い立ちました。
そうして始まった【感想と学び】シリーズの23作目、映画【HERE 時を超えて】を書いていきます。
ネタバレもちろんあります。作品の説明は最低限にしかしません。
簡単な紹介
Back to the Futureで有名なロバート・ゼメキス監督と名優トム・ハンクスによる、ほぼほぼカメラは固定で時を超えてある家のリビング(およびそれがある場所)の定点観測のようなスタイルを取った挑戦作。
恐竜の時代から氷河期、先住民の時代や独立戦争を経て街は開発され家が建てられる。その家に住む幾つかの世帯をリビングでのやりとりから観測していく。男女が愛を交わし、子が生まれ、悩み、喧嘩して、子は育っていく。人が死に、老いていき、失くしていく。それはいつの時代でも変わらないものだった。
とりわけある退役軍人の営業マンと妻、その子ども達と長男の妻、そして長男夫婦の娘という親子三代になる家族がメインに据えられている。主演トム・ハンクスはその長男役。最終的には彼が生まれ育った家に帰ってきて妻と語る。
カメラワークの本質とは
演出の勉強をしているだけに、どうしてもPANだのTUだのFOLLOWだの、実写ならドリーとかティルトとかズームとかってカメラを振り回すのがカメラワークだと思ってしまいがちで、実際カメラのワークだからそうなんですけど。
ただこうしてほぼFIXでも2時間半近くの作品を見せてしまえるんだと突きつけられると、カメラワークの本質って何をどう見せたいかなんだと改めて感じさせられました。
一応カメラが動かないとは言っても編集でフレームを画面内に描くことによる視線誘導や場面転換の工夫はなされていて、だから会議室にカメラつけただけみたいな定点観測とはまた少し違っています。照明やレイアウトも工夫されているでしょうしね。
いやしかし、それにしても定点だけでドラマを描ききるのって凄いですよね。それで魅せてしまえること。寄ったり切り返したりもできない。当然ブレたりもしない。レンズはどうなんだろう、変えていたのかな……。
最後の最後ではカメラが動いて終わるというサプライズもあり、これは非常に面白い挑戦だったと思います。
客観だからこそのまとめ方
定点観測の形式であるから、観客はどこまでも客観。
黒人一家が差別を恐れているのも、飛行機好きの夫をスペイン風邪で亡くす妻も、発明家の夫婦も、先住民族も、そしてメインとなる「アル一家」の悲喜交々な物語も、ずっと観葉植物のように眺めているだけ。
それはある意味では観客は記録媒体として観測しているようなものであり、ホームビデオになっているようなものなんですよね。登場する人物の誰よりも、その場所について知っているし、記録している。
それを上手く記憶と交えて、最終的にはボケて記憶を無くしていくマーガレット(アルの長男リチャードの妻)がリビングで記憶を思い出していき、「ここにいた。ここが好きだった」とタイトルのhereを口にするのが、上手く落としているなぁと感動しました。
観客が観測者であるのは、途中で先住民族の夫婦のパートで妻の葬式の埋葬品として埋めたネックレスがアル一家のパートにて裏庭から出土するシーンでも示唆されています。同一の場所ないし人で異なる時間軸を描く場合はこうやって関連性を出すのが一つのテクニックというか演出ではありますが、これが主題と絡められているんですね。
原作では映画では描かれていないけれども遙か先の未来まで話が繋がっていて、もっと客観というか淡々とさまざまな家族と自然を描くことで儚さとかを表現しているらしいんですけど、本作ではそこを家族の愛に焦点を当てて、家族の愛が根を張る場所としての家を観測する形にしたのは見事でした。
記録者としての観客はずっと客観だけれども、最後にhereに言及するマーガレットに対しては、誰よりもこの場所を知っていて覚えている観客は感情移入できる。そこでカメラが回り込んで寄っていき、そこから引いて家を外側から眺めて終わるというのは美しい落とし方だったと思います。
感想
これは面白かったです。非常に満足しました。
映画館に行ったらコナン映画の観客ばかりで、その中で事前に調べもせずに何となく「見てみようかな」で選んだんですけど、大当たりを引いたなと。しかもこれもうすぐ公開終了らしいし。
私自身が家族愛的な話が好きなこともあって特に刺さりましたね。個人的には去年観たオッペンハイマーとかカラーパープルよりも好きかもしれない。まぁ正直なところを言えばアル一家だけで良いという感もなくはないのですが、でもそれだとこの題材でやる意味もないですしね。上述したように観測者であることに意味があるわけですし。
なんかそういう意味だと、大きなのっぽの古時計とか、子どもを見守る飼い犬の話とか、そういう系の話でもありますね。観測者たる観客の代理人が空間というのがやはり特異ではありますけどね。
個別の話をすると、黒人一家のBLMの下り。警察に止められた時には両手を見せて不振に思われないように免許証出せ、それで違反切符切られても満足しろと。本当にこういう世界がアメリカにはあるんですもんね。恐ろしい話ですよ、なかなか日本だとそこまでのものは(公権力には)少ないので、怖いですねぇ。
あとはマーガレットが「自分たちの家庭が欲しい」と言い続けて、最終的には別居してしまうこと。これは明確に記憶している観客からすると彼女の1人娘であるヴァネッサが大学に行く費用とかを考えると「買わなくてよかった」というコメントも出るんです。
ただマーガレットは最後までそれが嫌で家出してしまう。これにリチャード(長男)は「僕は細かいことを気にしすぎていた。心配していれば悪いことは起こらない気がしていたんだ」と語っています。
仮に自分たちの家をローン組んで買っていたら、生活には困っていたと思うんですよね。娘を支援するお金が足りていたか分からない、両親の介護だって出来たか分かりませんしね。だからリチャードの心配は家族を守っていたんですよ。でもそれって結果論でもあって。
家を買うことで失敗する未来があったとしても、その未来にはその未来なりの幸せもきっとあった。買わなかった未来にも苦難が待っていたように買った未来にも苦難はあっただろうけど、それはどう転んでも人生そういうものなんだと思うんですよね。進んだ先にはその場所なりの良し悪しがあるんですよ。
マーガレットは、そのなかで新しく家を買う未来を望んでいた。その方が人生でプラスとかマイナスとかではない。彼女が弁護士の夢を諦め夫が画家の夢を諦め家族として頑張っていたけど、最終的に彼女は別居する未来を選んだ。それって感情の問題で、合理性ではないんですよね。善悪じゃないんです。
「後悔しない選択」って、そう簡単に選べないと思います。どんな人生選んでもIFには想いを馳せるものだと思います。でも後から言い訳に使うような選択はするべきでないし、そのとき選択した自分のことは尊重してあげるべきだと思うんですね。
マーガレットはどこまでも「家を買わないリチャード」を尊重できなかった。「家を買って欲しい自分」の方を尊重した。それが行き違いであり、そんな彼女が”here”を語って締めるのが、すごく構成として良かったです。
ボロ泣きでした。
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