大人になった、と思う。
なった気がしているだけかもしれないが、実際もう20代も後半なので大人になってはいる。
そんな数字とは別に体感として、大人になった気がする。
何をもって大人になったと感じるのか。大人になって子どもだったと思うこれまでの自分と何が一番違うのか。
それは分析が上手になったことだと思う。
分析が上手くなったことで、自分とは何か、相手はどんなものなのか、今なにをするべきか、目の前にあるものをどう捉えるのが良いのか、そういうことが少しずつ分かってきた。一歩引いた視点を持てるようになった。
それは言ってしまえば冷静な思考ができるようになったとか、論理的な思考ができるようになったとか、落ち着いたとか、そういうことにもなるけれど。だが間違っても冷めたわけじゃない。
冷めてはいない。熱い自分の中身は変わらないままに、蓄積された分析が骨や筋肉のように自分を大人に擬態できる姿にしてくれただけ。だから昔と同じように夢を見ているし、怖いものは怖く、痛いものは痛い。
分析が上手くできるようになってきた成長の秘訣はなんだろうかと考えたとき、そこには勉強や他者との交流もあるかもしれないが、一番は1人でいる時間が増えたことが大きいと思う。
私は高校を卒業して1年間浪人し、そのときに半ば予備校を不登校になっていた。そこから大学に進学したが、やはり勉強が嫌いすぎて不登校になっていった。休学して事実上のニートとなり、フリーターとなり、再就職……と肩書きを転々と変えて現在に至るが、交友関係は狭く独り暮らしなこともあり、1人の時間は実家にいた頃から飛躍的に増えた。
人は1人でいると、否応にも己との対話を始めるものだと思う。そして記憶にある自他の言動に対しても想いを巡らせると思う。こうした時間に自分の中で分析が進んでいて、重ねていくことで上手くなってきたのではないだろうか。
自分の分析の一例を紹介すると、私は喋りたがりな人間だと思う。人の話を聞くよりも人に話をする方が好きだ。
喋るのが好きで得意な人は、思考を整理することが得意だ。自分は何をどう考えているか、感じているか、その思考を整理できているから話すことができる。
対して苦手な人は喋りながら何を喋っているか迷子になってとっ散らかる。だから話が下手で遅く、その経験によって「喋るのは苦手だ」と感じている人が多い。
喋りたがりなタイプは、人の話を聞いていないと言われがちだ。私もよく言われるし、喋りたがっている人を見ると私もそう感じる。
しかし別に聞く気がないわけではないのだ。ただ思考の整理が得意だから、相手が何を話そうとしているのかを話の途中で理解してしまい、論点の整理をしてしまう。そして相手がまだ話している途中なのに、相手の話に対しての自分の反論や感想を頭の中で組み立てているのだ。
つまり相手の話を聴きながら次に自分が何を話すか考えているのであり、自分が話していない時間を自分が何を話すか考える時間に充てている。だから言い負かすようなことは得意だし会話のテンポも良くセンスによっては「話が面白い人」になれるのだが、一方で相手の話している内容を誤解してしまったり途中で遮ったときなんかには「話を聞かない人」になってしまう。
良いか悪いかではなく、そういう人だということ。
そこには良さも悪さもあり、大切なのはどういうタイプになろうとするかではなく、自分がどういうタイプかを理解しておくことだと思う。理解すれば自制も効くし、長所として磨くこともできる。
大人になって、私は相手の話を聞ける人間になった。少なくとも他者から見ればそういう人間になったように見えていると思う。でもそれは聞き方を変えたわけでもなく、聞けるようになったわけでもない。聞いていると相手に思わせるのが上手くなっただけだ。
己の分析ができれば、人間に対する理解が深まる。それは他人の言動に対して「この人はどういうタイプで、なぜこうしているのか」を考えるキッカケになり、相手の分析につながっていくのだと思う。
分析ができるようになって、新たな気づきも沢山あった。
一例を紹介すると、それはコロナが大流行したときの話だ。
緊急事態宣言により自宅に引き篭もることを推奨され、人と人の接触を避けるべきだという考えが社会を支配した。一方で、その状態では仕事にならずビジネスが続かず、社会が機能しなくなる。社会を守るために社会を止めるというジレンマに直面して、やがて懐疑論が出てくる。
結果論だが日本は比較的被害が軽かったように思う。それは食生活の水準や医療福祉の充実に衛生面に島国である点など様々な理由があるのだろうが、ともあれコロナを恐れて経済を停滞させてしまうのは損得が見合っているのかという疑問が湧き上がった。これは日本国外でも当然ある議論ではあった。
政治家は、常に数字と向き合わなければならない。行政はマクロの視点に立って出来るだけ良い社会に(マシな社会に)なるように判断していかなければならない。そうして取捨選択していく中で、捨の側に振り分けられてしまう人が少なからず出てしまうのは仕方がないことだ。
しかしその数字が全体から見て何%だろうと、その1人1人にとっては関係がなく、1人の命も人生も同じ大きさであり重さだ。
ある日突然に感染症によって家族と隔離され、最後の瞬間にも立ち会えなかった人がきっといる。その人にとってはコロナの影響が世界で何万人か何億人であるかなど関係がない。そうした声を絶対に政治家は無視してはいけない。
これは中国史でよく船で例えられるところの、「国とは民である」という言葉の指す意味だったのだと思う。歴史においてこの手の言葉が出るたびに当たり前だろうと思っていたが、それはこの為政者に求められるマクロとミクロのバランスのことを言っていたのだと初めて理解できた。
小学生の頃から三国志や孫子にハマって色々と中国史を学んできたが、結局は上辺の言葉だけなぞって理解できていなかったのだと痛感した出来事だった。
分析によって人や物に対しての視点がさらに増えたと思う。いろんな角度から観測できるようになった。
思い返せば、大人になってから「性格が良い/悪い」「陽キャ/陰キャ」という風に人を二分して考えることがなくなった。もちろん男性/女性や、日本人/外国人といった属性は踏まえるが、それもまた安易な二者択一で人を括らなくなった。
誰だって好きな人には優しくするだろうし、嫌いな人には冷たくなる。家族に対しては愛情溢れる素敵なママさんも、バイト先のおじさん店長に対しては冷たく接しているかもしれない。家族にとっては優しい人だが、店長にとっては冷たい人になる。どこから見るかでしかない。
カツアゲをした帰り道に野良猫に手を振る人だっているだろう。会社で生意気な態度を取った翌日に友人のために東奔西走する人だっているはずだ。何かができて何かができない。誰かにはやることを誰かにはやらない。人はそういうものだと思う。
クラスで陽キャと言われる人も、クラブチームに行くと聞き手に回ることが多かったりする。中心に立つ人、前に立つ人、話を回す人、決断する人、それは集団の中で相対的に配役されていくだけで、コミュニティ次第だ。だから陰キャばかりが集まれば陽キャのごとく喋り始める奴が現れる。環境が人をそうさせている。
絵を描くようになって感じたが、細かく分析できていないのは観察力が足りていないからだ。観察力が足りていないのは、観察するための自分のバイアスの薄い冷静な視点、観察するべきポイントに対する知識、何より観察対象への興味だと思う。
分析といえば最後に仕事の話を。
自分は現在3社目だが、1社目に入った頃は部活の延長の感覚で仕事をしていた。だからこそ頑張れた部分もあったが、それゆえに脆く、続けられなかった。
衝動的に会社を辞め、数ヶ月ニートとフリーターを挟んで再就職し、しかしやる気にならず、1社目の業界に戻ってきて今に至る。
会社とは何か、仕事とは何か。そういうのが少しずつ分かってきた気がする。これもまた大人になったなと感じる。仕事との距離感を掴めてきた、と言った方が近いか。
会社とは仕事をするための機関であり、仕事とは頑張ればいいのではないのだろう。
まだ言葉にできないので、分析を進めて、もっと大人になっていきたい。
コメント